『ペルソナ3 FES』 アトラス : 『ペルソナ3』は『ジョジョ三部』。
和製RPGの一翼を担う『女神転生』の、外伝である『ペルソナ』シリーズ。今回のエントリでは、その第三作目にして話題となった『ペルソナ3』について書きたいと思います。
- 出版社/メーカー: アトラス
- 発売日: 2007/04/19
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で、このサブストーリーやキャラクター達のやりとりを云々して楽しむのが常道なんだとは思うんですが、ぼくはメインストーリーがあれば必ずそっちを向いてしまう人間なので、ここでは、あまり語られる事のない、『ペルソナ3』本筋のストーリーが一体何をしていたのか、ということを考えていきたいと思います。
あまり長々と書く気はないのであっさり言ってしまうと、それは「人にとって世界の終わりとは、自分が死ぬときのことなのか?」という問いを立て、それに答えようとするものだったのではないか、ぼくはそう読みました*1。
黒幕の意図はありていに言って『ブリーチ』の藍染です。
最初から誰も
天に立ってなどいない
君も
僕も
神すらも
だが その耐え難い天の座の空白も終わる
これからは
私が天に立つ
昔ながらの「世界征服」にポストモダン状況みたいなもので言い訳を追加したもので、ええと、「神もいないみだいだし善も悪も究極的には理由がないみたいで辛そうだから、自分が代わりに神として君臨して、世界に確固とした基準を取り戻してあげよう」という、「問題に答えられなければテスト用紙を燃やせばいいじゃない」的なものです。で、じゃあ、それに立ち向かう構図になっている*2主人公たちにはどんな理路があるのかと、そういう話をしようとしています。
で、ここの根拠が先述したコミュシステムと繋がっているわけです。
そもそもストーリーはタロットを模して展開していて、そのタロットは「人の一生」を模したものです。<愚者>で生まれ<世界>として終わる、一は全、全は一とかそうした神秘学のあれです。黒幕や、主人公がシャドウの発生源であると判明するシーンでは「死神」、青年期における精神の死・生得的な第一次の価値観の崩壊、が宛てられていたり、とまあその辺りです。
それでは死ぬときに、自分が<世界>に溶け消えてしまうとき、彼の全ては終わってしまうのか。それならば自分が死ぬということは世界が終わることとなんら変わりなく、自分が死んでしまうとしたら、この世界がどうなろうと、それこそ滅んで消滅してしまおうとも、べつにまるで構わないことになります。
これと戦って、NOと言う。その根拠は?
これが、コミュです。つまりは、自分ではない人間。自分が関わって、大切にしたいとか、自分が死んだあとも生きてほしいと思えるような、関わりを持った、他人たちです。だから「リア充ゲーム」とか愛を込めて揶揄されるわけですが、これがその根拠となります。
一応、物語には二つのエンディングが用意されています。バッドエンドの方は、全てのシャドウが解き放たれて世界の終わりを待つだけとなった世界で、無駄な抵抗はやめ、学校の友人とカラオケに行ってそれで終わりです。これの意味するところは容易で、つまりは「自分の死は世界の終わりなのだから、死を早めかねない抵抗なんかせず、最期までをせめて享楽的に過ごそう」という選択です。
これに抗うグッドエンドは、これと戦い、主人公は「命の答え」に辿りつき、<ワイルド>のタロットを引き出して自分の生命と引き換えに滅びのシャドウを止めます。ここでの演出は、先のバッドエンドと違い、深く関わった全ての人の記憶を振り返り、それを糧にして主人公は<ワイルド>という未知のカードを引き出すことになります。
同じくタロットをモチーフとした『ジョジョの奇妙な冒険 第三部』において、最後の敵ディオのスタンドは<ザ・ワールド(世界)>でした。時よ止まれ! そしてディオは不老不死の吸血鬼です。死に向かって流れる事のない生は、その時を止めています。そして<世界>。繋がってこないでしょうか?
どちらの作品も、それぞれの形で「死」への恐怖が誘うものを打倒したのです。『ジョジョ』においては死から永遠に逃れ続けることによって止まる時間を、「そして時は(死に向かってでも再び)動き出す」こと*3。『ペルソナ3』においては、自分の死に世界の死を道連れにせず、自分が死んでいなくなってしまう世界のために、自分だけが死ぬこと(これはごく普通に死ぬこととなんら変わりはない)を受け入れること。
どちらも共に、自分に流れていく時間と、それによってやがて訪れる死を直視し、ありのまま自分自身を全うしてその時を迎えること。そんなことを描いていはいないでしょうか?*4
*1:一方、ぼくの好きな柴田ヨクサルの『エアマスター』では「それは今生きている自分人それぞれが 世界の始まりから終わりなんだ…」とあるわけですが、機会があったらそれについてもいずれ書きます。『ハチワンダイバー』の話がその辺りまで来たら?
*2:はじめは漠然と、バケモノが襲ってくるけど自分たちには能力があるから戦おう、という場当たり的なものです。しかも満月の晩のシャドウは封印で、それを主人公達が殺したせいで、世界は壊れていきます。黒幕は能力を持たないので、本当に既存の世界を地ならししてしまえる存在としてシャドウを崇め、主人公たちに狩らせています。
*3:だから三部では「仲間が死んで」いき、ポルナレフが裏切ったディオに揺さ振られるシーンがあるんでしょうね。「おれはいま、光の側に立っている」でしたか。
*4:そんな自己犠牲をいきなり渡されてしまった、生き残った側はどうすればいいのか? 『ペルソナ3 FES』では、それを抱えたまま残された仲間たちが「巻き戻せる時間」を前に、意見を真っ二つにしてぶつかり合うさまを描いています。
『僕と一ルピーの神様』 ヴィカス・スワラップ : 偶然が証したもの。
- 作者: ヴィカス・スワラップ,子安亜弥
- 出版社/メーカー: ランダムハウス講談社
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このあらすじを聞くと、まず浮かぶのは「どんなイカサマを使ったのだろう?」であり、イカサマでないとしたら「スラム育ちであっても天才はその実力を発揮せずにはいないのか」*1辺りの発想になるだろう。実際ぼくも、そのつもりで読んでいた。主人公は、冤罪のイカサマで賞金を取りやめよう、とする主催者から弁護士スミタによって救われ、裁判を戦うためのクイズ全問正解の根拠として半生を語る。当然ながら弁護士も半信半疑に聞き始め……
「つまり勘で答えたら、ツキのおかげで十二問全部当たったということ?」
「そうじゃない。勘なんかじゃありません。僕は答えを知っていたんです」
「知っていた?」
「そう。全部の問題に対する答えを」
「その話のどこに”ツキ”が関係してくるのかしら?」
「僕が答えを知っている問題ばかり、彼らが出してきた。それはツイてるってことじゃないですか?」
スミタの顔には信じられないという表情がはっきり浮かんでいる。ぼくの中で何かがはじける。怒りと悲しみの感情を抑えられなくなる。
「あなたが考えてることぐらいわかってる。ゴッドボールと同じだ。僕がインチキをやったと思ってる。僕なんか、フライドチキンとウィスキーをテーブルに運ぶしか能がない。犬みたいに生きて虫けらみたいに死ぬ種類の人間だって思ってるんだ。そうでしょう?」
そして彼は、答えを知っていた。一度もスラム育ちから境界を越えるような立場にはいなかったし、学校にだって通っていない。孤児に生まれて教会に育って、孤児院にいたと思ったら乞食のために盲目にさせられそうになって逃げ。使用人として働いて違法ガイドとして働いてウエイターとして働いて、ただそれだけ。彼が答えを知っていたのは、そうして生きた日々の中で、たまたま得られた知識がたまたまそのままクイズに出た、つまりは全くの偶然である。
話はそれで終わり、ではない。
では、何か。
それが、冒頭のあらすじを紹介したときの予断と、響き合うものである。なんのことはない、それはただ、およそ教養とか知識とかとは程遠く、場合によっては文明と遠いとさえ扱われるスラムの人間であっても、下層階級に固定された人間であっても、全く何一つ変わる事のない、”同じ人間”である、ということだ。
知識は記号ではない。教養は所属階級を証す装身具ではない。”スラム育ちで犬のように生きて虫けらのように死ぬ”人間であっても、同じ人一人分の半生があって経験があってそこから貯め込んだ知識がある。
「いいですか、マダム。僕たち貧乏人にだって、クイズぐらい作れます。賭けてもいいけど、貧乏人がクイズを企画したら、金持ち連中は一つも答えられませんよ。僕はフランスの通貨は知らないけど、シャリニ・タイが街の金貸しにいくら借りているかは知ってる。月に最初に降り立った人間は知らないけど、ダラヴィで最初に違法DVDを作った男なら知ってる。どうです、あなたには答えられますか?」
それは、実在の証明。記号としての知識を上に重ねていく世界観で生きている文明人たちへの回答。クイズはある種の”文明度”を計り試す指標で、これに答えられることは文明人としてのレベルを証明することと取り違えられている。けれどその本質はゲームと賭けに過ぎず、島のような断片的な知識しか持たないラムがクイズに完答することで、フィクションは壊れてしまう。誰もがそれぞれの世界観を持つ人間であって、少なくともクイズで計れるような人間性などは、たかが知れているのだ。
現実の偶然は、物語を破壊する。本作の主人公ラムが語る半生は、本当に偶然ばかりだ。身寄りのない子供にはなんの保証もなく、起きることは何の前触れもなく突然やってくる。そんな彼が生きてこれたのは、物語を信じなかった、物語にだまされなかったからだろう。彼が関わった人物はみな、それぞれの物語を生きていた。そしてまた、その物語を守ってもいた。
親友サリムの崇敬する映画スターはゲイで(物語の崩壊)、幼い彼を育ててくれた神父は腐敗した同僚を咎めて殺され(物語の全う。殉死)、そのじつ隠れて子供をもうけていた(物語の裏面)。隣家の性的虐待を見過ごせなかったラムは仮の「弟」をやめてその父を階段から突き落とし(物語の放棄)、孤児を優しく養ってくれるセシジ氏は善人ではなく孤児を乞食にするために障碍を負わせていた(物語の崩壊)。挙げていないものも、この類型は守っている。
主人公ラムは、どの物語の<台本>にも安住できずに生きて、それだからこそ、スラムから抜け出せないままクイズ番組出演までたどり着いた。スラムと混沌と偶然。物語を所有することを許されず、運と運命になぶられるばかりの者たち。彼は物語に覆い尽くされた世界によってはじき出され、”人間未満”として、その世界に回収されていた。既成の、自走化した記号によって枠外に追いやられていた。そんな彼の生きた軌跡が、一つ一つの経験が、偶然によってクイズに一つ一つ答えてゆく。だから、その偶然は実在の証明なのだ。*2
『PSYCHE プシュケ』 唐辺葉介 : 世界の台本と僕、そして光。
PSYCHE (プシュケ) (スクウェア・エニックス・ノベルズ)
- 作者: 唐辺葉介,冬目景
- 出版社/メーカー: スクウェア・エニックス
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作品には死の匂いが満ちている。あるいはもう、誰も生きてなどいないのかもしれない。
どうせ僕には、自分が見ているものしか見ることが出来ないんだ。
世界には<台本>が用意されている。
もっと平たく、かつ公平に物言いするならば役割、ロールといってもいい。人は多くは他人との関わりの中で生きていかなくてはならないし、そのそれぞれに応じた振る舞いや対応といったものが求められる。
それは本作の主人公である直之にとってもまた、例外ではない。彼は飛行機事故で共に暮らす家族全てを失った人間であるが*1、そのショックのままに何もかもが滅茶苦茶な世界の住人になれるかというと、そうではない。
それが<台本>。彼は元からアウトサイドである駿兄を除く周囲の人間全てから、その視点を通しての解釈で、役割を押し付けられそうになる。例えば、伯母さん夫婦は彼を傷心によって壊れかかった人間として扱い、その「治療」をこそ真っ当な脚本として認識する。
「帰らないで。でも、今日はこれから一緒に病院に行こう。もう予約も取ってあるの。<中略>
でも、用事を済ましたらまたここに戻って来てね。あの、本当にごめんねナオちゃん。言うのが遅くなっちゃって。伯母さんたちもこういうとき、どうしたらいいかわからなかったの。でも、もう大丈夫だから。一緒にがんばろう?」
クラスメイトである大島君は、彼に「学生らしさ」を取り戻させるような<台本>を。
「だからさ、お前がサッカー部に入るってのはどうだ?」
伯父さんたちが帰ったあと、大島君から電話がかかって来た。
「なあ、この前の女の子が、また合コンやりたいって言って来てるんだ。佐方のことが気に入ったんだって。またやろうぜ。佐方もたまにはこういう学生らしいことした方がいいよ。毎日寂しいだろ?」
「前からつき合いがいい方じゃなかったけれど、最近はとくにひどい。そりゃ、佐方はいろいろあって大変なんだろうけど、たまには遊んだ方がいいと思うんだ」
新井先生は彼に、「芸術家肌は世間に馴染まない」とする<台本>を。
「そうね。そういうのも、佐方君には必要かもしれないね。絵を描いて、自分と正面に向き合って。……でも……」
「佐方君は、普通の学校に進むより、美大に行った方がいいと思うんです」
誰もが自身、それを押し付けているなど思ってないし、また、たしかに善意を実行に移す術がそれしかないだけでもある。
直之が彼らの<台本>に応じないのは、彼自身の性格によるものが大きい。彼にとっての世界への馴染めなさは、これを助けと素直に応じない、自分にとっての現実を分かち合わない、固執に起因するのも確かだろう。けれど彼自身にとって、それはもう、どちらがどちらなのか優劣の付けられないものになっている。何が現実で、何をもって現実で、そして、現実だからってそれがどうしたというんだ?
そうして彼の世界を描いた作品にも、おそらく三つの救いの片鱗があった。一つは藍子、一つは駿兄、そしてもう一つが、光。光はカーテンの光であり、彼にとって、絵として現実の世界に自分そのものを結実できる唯一の手段だった。
藍子には実在していないという、重大な欠陥がある。孤独を幻で癒すには、それが幻ではないという錯覚が成立していなければならない。
「あのさ、今回のことで僕が一番哀しかったし、信じられなかったのはね、あんなに人間らしく見えてた彼女の内面が空っぽってことなんだ。幻覚ってことはさ、見せかけだけで心なんかないんでしょう? あんな完全な外見のなかに、何も感じない空虚しかなかったんだ。それを思うとなんだかガックリしちゃって……」
駿兄もまた、孤独や生きて行けない感と向き合う一つの術を持っていた。
「直之、仕組みを理解しよう。そうすれば、少しは怖くなくなるかもしれない」
「みんなね、頭のなかに部屋があるんだ。それは自分専用の部屋で、自分一人だけが内側にいて、世界のすべての人は外側にいる。窓はついてるけれど、それはとても小さくて、限られたものしか見えない。おまけにガラスが歪んでるから、見えたもののかたちも正確じゃないんだ」
「あのね、ここで大事なのは、誰もなかには入れないし、自分も外には出られないってことさ。現実でいくら会話をしても、そばにいて貰っても、ダメなんだ。誰も自分の心のなかには入れられない。みんなそういうふうに出来ているんだよ。ぽっくり病だけじゃないさ。死ぬときだけでもない、生きてるときもそうさ」
孤独は必然であり、たとえ人と交わって生きていても原理的・究極的には全一のコミュニケーションは果たされてなどいないのだから、その仕組みを直視してしまえば、もう怖いものもなくなるんじゃないか? その考えは論理だけが正しく、それを抱いて生きた駿兄もまた、現実を見ながら生きていく事が出来なくなり、自殺する。
それでは絵は。光のカーテンは、彼にとって何がしかの生きるよすがとなりえたのではないか。この問いかけは、直之自身が、蝶の幻に埋もれて、手放してしまった。描く事は内実を失って自走化・自己目的化し、遂には、その行為さえも蝶の幻に取り込まれる。
「なんの絵を描くの?」
イーゼルの前に座っていると、蘭子が楽しそうに訊ねて来る。
そのとき僕は最初に描こうとしていたものを諦めて、少し違うものを描こうと思っていた。前のテーマは散々失敗して、疲れてしまった。僕は楽しいものが描きたかった。もともと楽しいことの方がずっと好きなんだ。毎日楽しい事だけを考えて、そうやって生きてゆきたかったんだ。彼女とデート、サラリーマン、マイカー、年に一度の温泉旅行、大きい犬。僕の夢だ。
それは無理だとしても、ちょっとくらい何かあったっていいはずだ。
「今度はね、見えているものを、嘘偽りなく描こうと思うんだ。前までは失われたものを描こうとしたからうまくいかなかったんだと思う。やっぱり、いくら心に覚えてたって、失ったものはもうどこにもないんだ。そのとき見たものは、そのとき描かなきゃだめなんだよ」
『キラキラ』のきらりルート一週目を思い出してほしい。鹿之助があのとき歌い始め、直之が今まさに手放そうとしているもの。あるいは『SWAN SONG』における尼子司が、最期のその時さえ決して手放さなかったもの、それは何か。
それは希望。現実が何もかもを押し流して、時間の流れが大切にしていたもの全てを奪い去って、それでも現実に何かが残っている。ぼくたちはそれを目の当たりにはしなかっただろうか。それはただ信じる事しかできない、非実在の希望。あるいは「人間の尊厳」。
――そして、現実にあるもの全てを手放したとき。
そこに生まれるのは、何もかもが夢で、元々存在なんてしていなかったんだという、世界と胡蝶の夢との同化になるだろう。現実を現実たらしめている全ての確信。それは認識しだいといえば確かにそうであり、それを心底認めたとき、そこにはもう。
「何もかもただの音楽なのよ。ある日目を覚ましたらレコーダーが止まっていてみんな死んでいる。ねえナオ、そうであってほしい?」
*1:作中のどこまでが”現実”か、という議論はここでは厳密に問わない。
『忘レナ草』 ユニゾンシフト(渡部好範) : 【はしがき】 「人形」と「所有」
ええと、ですね。(こちらは「です・ます」調で)
本当は、ヒロインの「所有」って云々、みたいな話をしたくてひっぱりだして来た作品だったんです、『忘レナ草』。
『AIR』の最後の方でカラスになって〜の話よりもさらに、主人公が人間として真っ当に機能している状態で、ヒロインとの関係性が「所有」とは程遠い点があるので。この話を持ち出すと早い話として、主人公がヒロインの側の意思によって拒絶される、「フラれて」しまえばそれで解決じゃないか、ともなります。けれどそれが他者性とか自立性として露悪的過ぎないかという突っ込みもまた成立すると思うので、じゃあどうなるのか、その回答の一つとして「主人公の助ける・守る、を拒む」を落とし所とするのはどうだろうか、と。
境界戦線―マージナル・バトルライン (サンデーGXコミックス)
- 作者: やまむらはじめ
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2004/03/19
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「ホントに…… 沙耶の言うとおりよね。
あたし…… あの子の事、自分の人形にしてたんだと思う」
「全部、沙耶のことはあたしがしてあげて、沙耶が傷つかないように一生懸命……
なんでもしてあげて、あたしはただ、沙耶が笑ってくれるだけでよかったのよ……」
「それなのに……
結局、沙耶を一番傷つけたのは…… あたしなんだね……」
- 作者: 佐藤友哉
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/03/07
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『忘レナ草』では、主人公と沙耶の間には、真綾との関係を踏まえた上での「対等さ」が志向されていて、それはかなり成功しています。"生"を奪い取っていたはずの主人公が、沙耶の死期を知って逆にそれを救おうと、"生"を与えようと試み、さらに逆にヒロイン自身に「自分に決めさせてくれ」と言われ、それに寄り添い見届ける事になるわけです。主人公の立ち位置は「収奪者→庇護者→対等者」と推移し、上からも下からもヒロインの意思をエゴで汚さず、「所有」していません。
上記の"生"を奪うための手段がセックスである事や、"生≒性"と、音や文字が重ねられている事や、死神エアリオが砂時計を砕いて人間たちへの関与をやめる事や。『忘レナ草』はメタギャルゲー的な視点を若干含んでいて、結末が自己否定的で暗いです。2002年当時に自省的な執筆方針を以てシナリオを書くならば反動的な「行き過ぎ」はある意味で当然かもしれませんが。
それじゃあ、似たような方針で、明るいものはないのか。これに対してすぐに思いつくのは『Fate/stay night』における「セイバールート」でしょうか。
フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] PlayStation 2 the Best
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2009/06/18
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と、なんだかぐだぐだ書いていましたが、結局ぼくの問題意識としては、フィクション全般が自身のフィクション性と向き合う(作者は神か。物語における偶然と必然は。みたいな)態度の持ちように興味があって、それがエロゲーみたいなメディアになると、エロゲー性と向き合うというか、ヒロインが予定調和的に主人公と結ばれてしまう性質とどのように向き合い、処理するのだろうかと。そんな感じのことをつらつら考えてみました。
『忘レナ草』 ユニゾンシフト(渡部好範) : 時の砂・月の雫
- アーティスト: ゲーム・ミュージック
- 出版社/メーカー: ファースト・スマイルエンタテインメント
- 発売日: 2002/09/19
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果たされぬ一念をもって人が亡霊という「現象」になるのなら、古くからの憑き物落としの語りの類いと、事の顛末は同じものとなる。
それが、死神エアリオの囚われた砂時計。
作中で明示されず、この推測が正しいか否かは分かりえない。それでも一つの推論を立てるのなら"彼女はループしている"。砂時計を回し、また戻し、それを繰り返すことで、主人公矢部正広の行く末を何度も見届けている。時間を戻しているので、彼女は元の記憶を持たず"いまが戻ってきた時間なのか、そして何度戻ってきているのか"という大きな時計での時間を知らない。彼女は"今"以外の時間を持たない。
だから、そんな彼女の時間を動かすのは、運命の巡り合せに生きた人間として変化していく正広たちの行動にしかなりえない。当たり前の話である。彼女自身の時間は既に止まっていて、単独では「現象」でしかないのだから。
メタレベルで完全に封殺され、完成した悲劇である。砂時計が行き来する時間の中には「幸せな結末」にたどり着けるだけの材料が、そもそも、残っていない。
これが、作中で示される人間観と一致を成していて美しい。現世で生きたものとして実在するための三つの条件、身体・魂・エネルギー。身体は時間的可塑性を約束されていて、この世界観での生き物の死とは、これを保てなくなることによって始まる。何もこんなややこしい言い回しをせずとも、単純に、身体が弱っていく、ということでもある。
そうするとその存在は物質世界での形を留めていられなくはなるが、イコール消滅ではない。身体の崩壊によってあぶれた魂とエネルギーの二つを切り離して、消滅させる一手間が残っている。死神は「生き物を殺すのではなく、無に帰す」のが役目であるというのは、そういうことだ。
予定外の死を迎えた人間と死の管理者が協力して、その例外状況を解決しようとする。そんなプロットを見かけることは多い。そうしたもののなかでも本作は、特権的な解決を許さず、「一人分欠けてしまったエネルギー」はそのままに作中を移動し、それぞれの結末に向かう。
事の核心である過去に起きた出来事は、ありふれた筋書きである。正広と幼馴染の姉妹、過去において亡くなった姉あみと、離れ離れになり詳細を忘れていた正広と、再会する妹香澄。"死"が見える香澄は嫉妬からあみにそれを警告しなかったことを悔やみ、正広は事故現場で動転してあみを助けずに逃げたことを忘れ、そしてあみはどうしても死に切れず、何も果たせないことを承知しつつも死神エアリオとして現世に残った。そして数奇にも正広が迎えた「予定外の死」の調整にあたる。
事故の記憶を忘却に追いやった正広は、そのままやさぐれて成長し、ありふれた路地裏の喧嘩で致命傷を負う。これが「予定外の死」であることから死神エアリオの介入を招き、曰く「この月が新月になるまで、毎晩誰かとセックスをして、死なない程度に"生"を吸い取れ」として物語は始まる。
ヒロインは先に挙げた幼馴染姉妹の妹、香澄の他には二人。生まれつき入院ばかりの人間嫌い沙耶と、骨折で入院している元気少女こより。二人の物語もまた、サイドストーリーとして本筋のテーマを固めている。
それが、「人形」と「忘却」。
人間嫌いの沙耶は親友である真綾との交流によってだけ、孤独を慰めて生きている。けれどその関係は非対称で、沙耶を愛し独占しようとする真綾に依存する形で成り立っている。これが、「人形」。正広がこの関係に加わることによってそのバランスが崩れ、沙耶は真綾に裏切られ正広に恋し、「人間」として自分の意思で死を選ぶ。
沙耶は今、自分で決めようとしている。
今まで、自分でなにも決められなかった……
決められなかった沙耶が、自分の運命を決めようとしている。
俺にそれを止めることはできなかった。
沙耶がせっかく、本当に『人間』になろうとしている事を。
こちらが、死神エアリオの取る最期の選択の補強となる。死の完遂だけが自分に残された人間、不本意な「現象」としての存在に終わりを告げるものならば、それを選ぶ意志。
もう一人の元気少女こよりが担当するのは「忘却」。こよりは、正広がそうであるように、自分の心を苦しめる記憶を忘れていて、彼と違い、その量が既に飽和状態にある。正広との関わりの中で共に遊んでいた小鳥の「ぴよ」の死の忘却に失敗し、芋づる式に全ての記憶を失っていく。
「そうだ。ボクも深くは知らないが、彼女は元々、心の中に爆弾を抱えていたようなものだったんだろう。
そして、小鳥の死が引き金で、それが爆発した」「だから、彼女の記憶をつなぎ止めようとしない方がいい。
無理に邪魔をすれば、おそらく彼女は壊れてしまう」
こちらは本編の結末と共鳴する。「人は忘れるから生きてゆける」。死の代わりに、生きていけなくなる破綻した悲劇の記憶全てを差し出す。そこには一体何が残るのか。
そこで本作が許したたった一つ、ほんの僅かな救済。それが月の雫にメタファーされた「涙」になる。
死神エアリオは、自分の存在を時間軸全てから消滅させることで悲劇を回収する。
それは忘れること。過去において事故に遭って死んだ自分を、それによって愛すべき人々に呪いのように纏わり付いてしまった悲劇を、全ての記憶を忘却させ、自分は「存在しなかった」ものとなって消えること。死神にまで成り遂せたことの、贖罪。
涙は、具体的には何一つ、ほんの僅かさえも救いではない。けれども、ここで流される涙とは「身体」に宿るものである。生きた人間のエネルギーの痕跡である「記憶」は、人の精神、ここで描かれた「魂」だけに宿るものではない。本作の悲劇の忘却ではどれも、涙を流すことだけは許されている。
Forget-me-Not. 私を忘れないで。その存在を自ら完全に消滅させた彼女が、物質である紙に残した、伝わることのないメッセージ。記憶全てを失っても、身体が涙を流すことだけは許した。祈りに応える「涙」。そんな、最も小さな「奇跡」の物語。
『マギ』 大高忍 : 王様とマギ
- 作者: 大高忍
- 出版社/メーカー: 小学館
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生来的、あるいは身体的な欲求と呼んでも誤差はそうないだろう。三大欲求でもいい。食べ物は舌をヤケドするほど熱いか、目が冴え渡り頭頂を突き抜けるように冷えているか、あるいはひりつく喉を爽やかに潤し、あるいは歯応えや舌触りとして旨みが感じられるか。傍らに魅力的な異性はいるか、寝床は充分に広くて暖かいものか。あるいはもっと社会的なものでもいい。人から褒められたい、認められたい、時として甘やかされるほどチヤホヤと扱われ、高い酒に酔ったかのようにいい気分でありたい……。
けれどそれは際限なく叶いはしない。ただ叶わないのみならず、”世界”は時として過酷で、その辛酸をなめて生きた人間はもう、単純な欲求の充足では救い得ない「別の何者か」になっている。それをして、人間だと答える向きもあるだろう。
「マギ」は「王」を選ぶ。
人が群れをなし拡大し社会を構成するときから「王」が求められ、その「王」を選ぶ賢人であるところの誰か、それが「マギ」。
王が己の主張を賭けて殺し合いを展開すればそれはバトルロイヤルに過ぎない。力ある者が頂点に立つのなら人はその集団に与して生きていくことに積極的な価値を見出せはしない。せいぜいが、自分で物事を考えなくて済むといったところであり、けれどそれは意外と説得力を持ってもいる。
「王」を巡るそうした混乱と錯綜の中で、「少年漫画の白と黒の主人公」の”白”として、直感倫理の裁定と力の行使だけを担当する「マギ」を配して、『マギ』の物語は始まる。
人間の計と尽力は「王」であるアリババに。これが所謂「黒の主人公」となる配置は『鋼の錬金術師』と通じるものがある。そして作中でもそれは<黒の器>と呼び習わされ、この辺り、自覚的なようでもある。
「白の主人公」である「マギ」はアラジンに。『金色のガッシュベル』『HUNTER×HUNTER』などあるように”白”を「王」とするのが一般的に思う。が、先に挙げた『鋼の錬金術師』と併せて、こちらも「根源倫理を問う白・王の手管を尽くす黒」の役割配置になっている。
ぼくは本作『マギ』を、今のところ『鋼の錬金術師』の対として読んでいる。後者が白の主人公を国取りから遠ざけて人体練成(人と神の境界線)の倫理を追究する作品であるのに対し、前者は国取りの主役に”黒”の主人公を置いて世界を横に広げて見ようとする方向へと向かっている。後者が演繹的であるとするなら、前者は帰納的に世界を見て回ることで「王格」や「倫理」を証そうとしている。
そしてその時主軸となるのが、冒頭に語った「欲求」となるらしい。「マギ」アラジンはそうした意味で純度の高い望みを綺麗に持ち続けていて、「王」アリババは王族でありながらも「人を使役・支配すること」を拒む意志の萌芽を持っている。空間的には横向きに国々を、時間的にもおそらくは縦に古代文明を、繋いでいく「王の倫理」がどのような姿を見せるのか、今後も注目して読みたい作品である。
『ボクラノキセキ』1巻 久米田夏緒 : 『AURA』2巻、ただし竜端子は本物です。
見返して、べた褒めブログ然とした印象がなんなので佳作を。先日ペトロニウスさんがラジオで思い入れを語った『ボクラノキセキ』。
ボクラノキセキ 1 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)
- 作者: 久米田夏緒
- 出版社/メーカー: 一迅社
- 発売日: 2009/02/25
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――邪気眼だと思っていたら、本物の異能だった。
そうした作品として若干の目新しさも無いではないが、本作の見所は「他人とは決定的に違う、自分」を巡って、自分自身に課す意志の問題だろう。
自分が他人とは違う人間だと、それもどちらかといえば「特別」な意味でそうだと意識したとして。仮に、自分が人とは違う「何か」を持ち、それはとても特別なもので、世界の見方すら変わるもので、けれど他人にとってそれは理解のしようも無く、普通に過ごしているぶんには邪魔にしかならないもので。
俺は
版図を拡大せんとする国々が剣と魔法による戦争を永く続けている世界の
小国ゼレストリア第三王位継承者ベロニカ
だった
戦争で死んだ
妄想ではない
今生においても魔法が発現した事で確信を持つ
でも
否が応でも皆見晴澄として
この世界で
生きていかなければならないので 1巻:P64〜
冷たい目で見れば、描かれる部分々々のクオリティーの格差が、若干のパッチワーク感を生み出してしまっている。掲載誌の本誌『ZERO_SUM』の作品だけでも、異世界の国々の仕組みには『Landreaall』(おがきちか)の気配(王位継承権、そこだけ細かい設定なのか)があり、魔法の理論や現代世界での反映と扱いにおいては『LUWON』(南澤久佳)の影響が匂わないでもない。牽強付会かどうか、自分でも瀬戸際に思うので、そうした点に個性はまだ見られないという意味だけでもいい。
Landreaall 1 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)
- 作者: おがきちか
- 出版社/メーカー: 一迅社
- 発売日: 2003/03/26
- メディア: コミック
- 購入: 30人 クリック: 180回
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さきにも書いたように、「他人とは決定的に違う、自分」を自分自身どのように世に処していくべきか、そうしたミクロの問題は、内容的にも感覚的な描写においてもこの作品の魅力となっている。
過去に自分で吹聴した転生を"黒歴史"として火消ししてすり替える描写、邪気眼的な魔法による復讐を否定する描写――そしてさらには、「この世界のやり方で」と、モップを掲げて喧嘩に挑んでいく姿。
過去における高潔な王女としての描写は凡庸だ。けれども、その高潔さが現代の学校の特性と響きあうとき、作品は一瞬の輝きを見せる
1巻の終わりでは、同じく異世界の記憶を持つ同級生たちが覚醒し、事態が動き始める。物語が進み、異世界が前景化すればするほど、そうした魅力が褪せていくであろうというこの予感を、裏切って貰えたら嬉しい。