『Dies irae -Acta est Fabula-』正田祟 : 起源と超克

Dies irae ~Acta est Fabula~ 完全版初回版

Dies irae ~Acta est Fabula~ 完全版初回版

 物語を二つの流れ(香純&マリィ / 螢&玲愛)に割ったのは、おそらく「主人公が取りこぼすか否か」だろう。
『ディエス』は燃えゲーに比され、物語は玲愛ルートラストバトルの問題*1を含めてなお、異能バトルのエンターテインメントで魅せている。それが文章の力であれ、段階を経てインフレ寸前に膨張する構造的な盛り上がりであれだ。
それは確かに間違いではない。しかし、その盛り上がりに忘我することなく筋を追っていれば、大半のプレイヤーは一抹の違和感を覚えずにはいられないことも、また確かだろう。なぜなら『ディエス』は「幻想/異能の否定」をもまた、その中核とした物語だからだ。
 それ単独ではそう珍しい話ではない。"主人公"は争いを止めるための力を得て、争いを止めるために戦いに臨む。"悪役"は争いや悪や混沌や、あるいは独善の覇道を叶えるべく、戦いを望む。無数にあるバトルモノの基本骨格の一だ。「幻想/異能」は"悪役"、あるいはその世界に属するヒロインの呼び込んできた「非日常」であり、それを否定することが、「日常」に回帰することが、長い戦いを繰り返した果ての目標地点となる。するとしかし、ここに矛盾が生じる。
 主人公側に付く筈の読者が、そうした戦いの物語を願っている。
それはあらゆるバトルモノ諸作に向けられるお馴染みの批判でもある。そうした物語を求める人は相争い殺し合う景色を望んでいる、平和を求めるとは平穏を求めるとは、己が趣味趣向を凝らすための大義名分に過ぎず、それはタテマエでしかないだろう、と。
 実に馬鹿馬鹿しい。そんなことは当たり前だ。我々は戦いの物語を願っている。
異能バトルによる「燃え」の魅力と、そうした物語世界を志向する心根までも含めた「幻想/異能」の否定。『ディエス』に生じる違和感とは、実質、この矛盾への問いに答えようとしたが故のものなのではないか。我々が真に望んでいるものとは何か? 戦いの物語の果てに、平穏と日常を求める主人公とは別の形での、しかし同じ結末へと向かう、問いと答えがある。

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 その異常性は自覚されて「そういうものだ」として扱われるが、本作ではそもそも主人公が願う平穏、「日常」の質こそが異常と規定されている。同じ一瞬を無限に繰り返すこと、時間を停めること、<切断>の能力を時間に適用し一瞬を無限に裁断することで時を停める。異能としての美しさを兼ね備えて体現される「日常」に対する異常な渇望は、「日常」という概念の一つの純化でもある。極まった純化という、異常性。
 先の話と併せて考えてみよう。そもそもある程度の「非日常」を望むことは、本来ならば”通常”なのだ。その量は「日常」よりも少ない配分かもしれない、その質は物語という違う世界でのお話であることを求めるかもしれない。けれど、「日常」と成り代わらない*2程度の「非日常」であれば、それを望むことは自然であり、寧ろそれを一切望まない、時間単位の「日常」の中の揺らぎとしてすら究極的には望まない、ということの方が”異常”なのだ。主人公の藤井蓮は、あるいは永劫回帰の肯定かもしれないそれ*3を、心底の渇望としている。
 本作の「幻想/異能」である<聖遺物>とは、そうした人物の渇望を外界に反映するものとして描かれている。渇望が異能となり、幻想が外界を侵食する。香純&マリィルートでの蓮は「日常」に回帰すべく戦い、その「日常」の幻想は、ラインハルトに代表される「非日常」の幻想を打ち倒す*4。ラストバトルの対話が象徴的である。レギオンの流出と無限の戦いの地獄を望むラインハルトはここまでで話した「非日常」を純粋に望むことそのものであり、それに逆らって時間を停め平穏への回帰を目指す蓮は純化された「日常」そのものだ。
そして最後は、蓮も自覚するようにそうした”異常”を厭い、流出されるのは、全てを包み込むマリィの抱擁となる。対立と止揚、主人公は悪役を倒すが自身が新たな覇王となることなく、ヒロインとの調和的な二者関係が物語の結末を飾る。よく出来た「お話」である。

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 さて、だからこその螢&玲愛ルートの存在となる。
 例えば螢ルートでは、櫻井螢の翻意がどのように為されたのかがその焦点となる。螢は大切な人を失ってしまったから、その復活のために黒円卓に仕える身となっているわけだが、そのそもそもの根源は何処なのか。それを思い出し、直視することによってラインハルトと敵対する道を選ぶ。”復活”の真相を知ることに耐えられないとされていた螢が、蓮との結び付きによってそれを直視し、超克を意思することとなる。螢の起源はあくまで「兄やベアトリスの喪失」であり、それを受け入れられないからこその復活の幻想で、その"復活"が紛い物であれば、折れるにせよ立ち向かうにせよ、もはや彼女の望みはそこには存在しない。
 玲愛ルートでは、そうした起源がほぼ全ての人物に対し突きつけられる。
 印象的なのは前半のリザ・ヴァレリア・ルサルカの翻意と後半のシュライバー・ザミエル・マキナ大隊長三人の敗因。玲愛の仲間割れ工作に端を発し、リザとヴァレリアは自身の真の贖罪を目指して反逆し、ルサルカは自身の望みの原点へと辿り着く。シュライバーはヴァレリアによって己の原点となるトラウマと本当の渇望に晒されて破れ、ザミエルもリザの告発によって己の本当の想いを知る。
 我々が真に望んでいるものとは何か?
 ヴァルハラのエインフェリアと化し、「非日常」で無限に戦い続けることは、彼らが*5持つ、本当の望みであったのか? 起源に遡ることは、その問いを発することと意味を同じくする。
 玲愛ルートでは蓮もまた、友人を死なせることによって、彼らと同じ立場に立つ*6。螢ルートで問われたのはその前哨で、それはつまり、「あなたも決定的な喪失を抱えて幻想以外に打つ手がなくなったらどうするの?」という当事者性に関する問いである。蓮がラストバトルで何もしないのは、作劇規範上は問題があるとしても、この問いを向けたとき、カール・クラフトと対峙するのがラインハルト以外にはなり得ないがゆえの必然である。
 幻想の起点となった人物が、その起源に遡って違う選択をすること。幻想を超克すること。蓮はその選択を守り抜くことだけが役割であり、カール・クラフトに誑かされたラインハルトこそが、彼と矛を交えるに相応しい。藤井蓮は聖槍十三騎士団との戦いによって追い込まれ、聖槍十三騎士団はラインハルト・ハイドリヒによって追い込まれ、ラインハルト・ハイドリヒはカール・クラフトによって幻想へと追い込まれた。
全ては、神の自殺への渇望に端を発している。全てを知りたいと願ったがゆえの永劫回帰の世界、必然たる既知への嫌悪をその世界の神が抱いたとき、世界は塗り替えられるしかない。幻想は世界に飽いているラインハルトを巻き込み、『ディエス』の物語の起源となる。
 現実の在りようを拒否し、幻想にその打破を仮託したとき、戦いが始まる。
 蓮が”取りこぼす” 玲愛ルートで最後に語られるのは、我々は戦いを望んでいるのではなく、渇望を満たしたいだけなのだ、ということである。幻想はその渇望を叶えるかに見えるが、それは、ただひたすらに「そうではない」というだけの理由で否定される。
「二つは同じものではない」
「ゆえに幻想は渇望の代替にはなりえない」
 螢ルートで語られた「ガラクタと宝石」の交換不可能の話は、ここで全て一つに繋がる。幻想は、異能の戦いは、それ自体”決して渇望そのものを満たすことはない”のだ。外へ出られない神は最上の死に方を模索するしかなく、ラインハルトは無限の戦いで満ちることなどなく、ヴァレリアとリザは愛児たちを弔い、残された生者に愛を注ぎ、シュライバーは抱きしめられ、ザミエルは忠義に逃げ込まず自身の本当の想いと向き合う。
 本作が語ったのは、現実へ帰れ、ではない。
 日常にも非日常にも振り切れない我々の本当の思いを、幻想で誤魔化すことは出来ない。そう語ったのだ。
 さて、それでは我々の、あるいは"私の"本当の思いとは、渇望とは何か?
 それはこの物語に臨み、その圧倒的な奔流に身を浸し、ついには終わりを迎えるこの体験そのものではないのか?
 私たちは夢見ることを望む。そして、それゆえに本を開く。
 現実の目を閉ざし、夢で目を開き、夢に浸り、そして夢から醒め、現実で目を開くことを望む。
 Acta est Fabula. 本が閉じられ、悲喜劇は終わる。それだけのことであり、それこそを望んでいたのだ。*7 *8 *9

Dies irae ~Acta est Fabula~ オリジナルサウンドトラック 『Neuen Welt Symphonie』

Dies irae ~Acta est Fabula~ オリジナルサウンドトラック 『Neuen Welt Symphonie』

*1:主人公不在の最終決戦

*2:成り代わっちまえ! という方向性もまた、別のお話としてあるわけですが。正田祟のインタビューを読んだ時点では「日常の向こう側に突き抜けるルート」とは、その種の"逆転"を肯定するものだと思っていました。

*3:この辺りは「藤井蓮とカール・クラフトの相違点」としても割り振れる可能性/被造物が造物主を超克する蓮VSカールで終結する物語の可能性、を感じましたが、やらなかったこと、やれるような構造に組まなかったこと、が『ディエス』の物語で正田が何を描くことを優先/選択したか暗示しているようにも解釈できます。段階的に成長する主人公をラストバトルの盛り上がりに組み込まない。つまり少なくとも、そもそも"燃えエンタメを最優先する"つもりがない。

*4:いや、香純ルートは打ち倒さないですけどね。"戦い/非日常を継続する螢ルート"と比較すると、非日常という幻想は表向き後退して収束する方向性のルートだ、辺りでひとつ。……政治家の答弁みたいですね。

*5:あるいは我々が

*6:香純&マリィルートにおいても身内の死者は出る、というか多いくらいですが、"蓮が取りこぼしの責任を負うもの"ではないのが大きい。寧ろあちらでは「マリィがカールを殺さなかった」ように、蓮が守ろうとすることと切り離されて自ら意思し選択し死んでゆく先輩や司狼の姿に意義があるわけで。この辺り、正直2ルートの目指していた結末がごっちゃになった感は覚えていたりします。

*7:エピローグにおいて、蓮であって蓮でない存在がラインハルトより「物語の勝者」として「祝福」を受け取ることも同じ論旨で解釈出来る。「結局、同じところに戻ってきた」ではなく「意志を折らず、同じところに帰ってこられた」物語体験を、ある種の祝福との交換物とする。『ひぐらし』『シュタゲ』における「奇跡」の扱いと、概ね同方向。

*8:また、この論旨・作品の全体構成としての結末とは別に、ラストバトルで聖槍十三騎士団に華を持たせたラインハルト/正田の振る舞いは、逃避や仮託から成る幻想であっても、その存在を受容する、「愛」であることも、特筆しておきたい。

*9:「既知感と周回プレイの関係」「『PARADISE LOST』や男キャラ重視との関連から"対等"を巡る正田祟論」「ナチスドイツ・ニーチェ哲学・学園異能の三柱/三厨よりなるエンタメ論<〜汝、厨弐を愛したるや〜>」等々、他にも語りたい切り口は色々浮かぶんですが、相変わらずの作品構成とテーマ論に終始。長文感想は二次創作! いろんは……みとめない!