『うみねこのなく頃に 散 Episode8 Twilight of the golden witch』竜騎士07 : 「手品エンド」補遺

 手品エンドで描かれたのは、「幻想ではなく真実を直視すること」ではないという一点について。


 小此木社長と天草の真意を巡るやりとりが分かりやすい。
 あの推理の中身が"尤もらしいかどうか""筋が通っているかどうか"は問題ではないので、具体的には引かない。重要なのは、天草が返答に詰まったとき、それだけで、自分の"推理"が"真実"であると"信じ込み"、縁寿が引き金を引いた、ということである*1

「……ただ、この拳銃があるだけで。右代宮縁寿にはこの程度の推理が可能よ。如何かしら、皆様方…?」


「…………安全装置、外れてませんぜ。」*2
「知ってるわよ。……トカレフに安全装置がないことくらい。」


 彼女は、……生き残る。
 彼女を殺そうとする、巧妙に編み上げられた陰謀の渦から、……きっと生き残ったのだ。
 ……縁寿は舳先へ戻ると、その強い風に正面から向かい合い、さらにその先の未来を凝視する。
 主を失った船は、無限の水平線へ向けて、真っ直ぐに真っ直ぐに、どこまでも進む。
 その先に、彼女が本当に辿り着きたい願う真実があると、祈りながら

 ここで縁寿が展開した"推理"は、当っているのか("真実"なのか)分からないのである。縁寿の認識する限りの状況と、小此木社長の思惑への"推理"と、天草の持つ銃への"推理"が一貫しているだけであって、その一貫性が、事実と一致するか否かを保証するわけではない。同じく一貫性のある小此木社長の思惑が成り立つかも知れないし、同じく一貫性のある天草の銃への考察が成り立つかも知れない。ちょうど、ゲーム盤のルールで、筋が通りさえすれば複数の回答が成り立つかもしれないように。
 これはあくまで文字通り「推理」であって、真実であるかどうかについては、"推理"は何の保証もしないのである*3


 それでは、「手品エンド」が語ったものは何か、示したものは何か。
 ラストシーンのヱリカのセリフを見れば、それは容易に知ることが出来る。

 六軒島の島影も、今は遥か彼方。
 船は無限の水平線を目指し、……どこまでも、無限の旅を続ける。
 その無限の旅の始まりに、新しき真実の魔女は、同志の魔女に告げるのだ。


「………私は私なりの方法で、未来を切り拓くわ。」
「素晴らしいことです。」
「その果てに、……私が掴める真実は、あるのかしら?」
あなたが求める真実って、今さら何だって言うんです?
「…………………………………。」
「……………………………。」
「………ふっ。……その通りだわ。真実なんて、何の価値もないって、私は知ったわ。そして、もう一つわかったことがある。」
「何でしょう。」


天草の、看破されて戸惑った時のあの表情。悪くなかったわ。」

 真実など、分かりようもない。何故なら、この事件に限っては、当事者が生き残っていない以上、真実を真実と保証できるものが、何も残っていないからだ*4
 沢山の推理が成り立つ。右代宮絵羽が犯人かもしれない、そうじゃないかもしれない。右代宮戦人が犯人かもしれない、そうじゃないかもしれない。小此木社長は縁寿を狙っていたのかもしれない、いないのかもしれない。天草は縁寿殺害の命令を受けていたのかもしれない、いないのかもしれない*5
 けれど、それが一体、何だって言うんだ? と。
 看破に価値があるのなら、自分が「看破したと信じられるだけの条件が揃っている」ことが「真実である」ことの条件である。そう、すり替わっている。


 手品エンドが描いたものは真実か否かではない。自分で真実らしいと信じられるかどうか、喜んで受け入れられるかどうか。真実、ではなく、真実だと錯覚できる暴露の感触、である。
 さも、尤もらしい小此木社長への推理が成り立つ、天草への推理が成り立つ。それを、保証のないそれを、自分がそうであると信じるから真実である、と考えるのは、魔法エンドと、完全に同じ思考回路*6である。


 魔法エンドはともかくとして、「手品エンドの縁寿は純粋に真実を追っている」と見るのは、"魔法"である。
 望むのは、真実ですか、それとも、真実を暴く感触、ですか?

「「グッド!」」

*7 *8

*1:「そんな、あそこで撃たなければやられていた」と思うだろうか。それは、"分からない"のだ。何故なら、それが分かる前に、縁寿が撃ってしまったのだから。

*2:この箇所を、騙そうとしたから害意があったのだ/推理は当っていたのだ、と読むこと"も"出来る。しかし、何にせよ頭に血が上った縁寿を止めねばならないと、咄嗟に嘘を吐いたのだ"とも"読める。そしてこの状況に於ける真実とは、"どちらか分からない"である。

*3:前提が真でなければ、それに基づくあらゆる推論も、途端に意味を為さなくなる。そして真実とは、"前提が真である"と保証されることである。推理によって断定された犯人は「証拠を出せ」と謂う、しかし、証拠まで出した推理小説に読者は「それが証拠であると保証するのは探偵≒作者の恣意だ」と謂う。「分からない」に向かって、数多の"推理"を立てても、"推理が尤もらしいこと"だけを根拠にしては、「分からない」を「分かった」に変えることは出来ないのである。

*4:「いや、戦人が……」と言うだろうか? しかし縁寿はあの時点でそれを知らず、全員死亡の認識に基づいている。ならば、"誰かの生存を当て込むこと"はそのまま、想定外の恩恵が降ってくる"奇跡=魔法、を願うこと"に他ならない。

*5:あの事件への対応と手品エンドでの判断は違う、と思うのであれば、このエントリの頭に戻ることを推奨しつつ。

*6:「あそこで撃たなければやられていた」と"信じ込む"こと、を含んで。繰り返すが、真実は、あの段階では、"まだ分からない"のだ。

*7:仮にこれを、「いつか真実に辿り着いてみせる、という絶対の意思だ」と読む(ここまで見れば、そもそもの前提として、これはまずもって"誤読"となるけれど。)としても、それならばそれは「根拠が無くとも選んで信じる幻想」として等価であり、先に書いたように、その果てで生き残った戦人と出逢えたなら、それは"奇跡を得た"に過ぎない。そして、これを「絶対の意思は奇跡を引き寄せる」と昇華するならば、それはベルンとラムダに対する「両取り」であって、完全なものは完全である、という自家撞着に過ぎない。

*8:ただ、何でもかんでも「保証がないから分からない」と繰り返すのは「99%であっても100%ではない」と、当たり前の事を繰り言のように語っている/何も語っていない行い、に他ならないとも思うので。あくまで『うみねこのなく頃に』の手品エンドに何が描かれていたか、というお話として聞いていただければ。「分からない」はずのことを「分かる」と言い張るのは、他人に対する干渉としては望ましくないかもしれませんが、「何かをそうであると信じて行動する」という意味においては、結構、自分を促すために限れば、実践的だったりするとも思います。実際、彼女のように「陰謀だ!」と思い込めば、人だって殺せる決断力が(ry とは悪趣味が過ぎますね、申し訳。