『うみねこのなく頃に 散 Episode8 Twilight of the golden witch』竜騎士07 : わたしが信じた魔法、あなたが残した手品

 橋を両側から架けねば成り立たないもの、あるいは、手を互いに繋がなければ成り立たないもの、そうしたものは、確かに実在する。
 それでは、”手を差し出さなかったのは”、果たして誰であったのだろうか?

 以下は『うみねこのなく頃に 散 EP8』のぼくのプレイメモの抄録とそれへのコメントである。
 文頭に「・」が非引用部であり、ぼく自身のプレイメモである。引用枠内のその他は作品の引用となっている。

 ゲームマスターである戦人には、赤き真実を使うことも出来る。
 しかし、赤き真実というルールは、魔女のゲーム盤にだけ出てくるものだ。


 ニンゲンの世界に、赤き真実など、存在しない。


 自らが見て、聞いて。……信じるに足ると、自らが信じたものを、赤き真実として受け入れるのだ。


 縁寿が認めない限り、どんな真実も、真実たりえない。


 それに、気付いて欲しいと戦人は願っている。
 赤き真実という、ゲームのルールで真実を押し付けても、何の意味もないのだ。

 縁寿は、自分の力で、自分の心で。
 真実を真実として、受け入れなければならないのだ。

 ぼくは話の結末自体には不満を持たない。「それがどのように物語られたのか」にのみ、不満を持つ。
 物語は戦人が事件の真相に至ろうと試みることから始まり、「魔法による殺人だ」と煙に巻く魔女ベアトリーチェとの推理合戦に繋がる。提示される魔法の描写と、それを暴くためのルール。物語の枠組み認識が転換されてゆく過程には、確かなセンスオブワンダーの興奮があった。物語は「現在の時間」としての縁寿の視点へと展開し、戦人が「真相に至り、魔女の真意を悟る」ことから降りた「事件の真相究明者」としての地位を縁寿へとバトンタッチする。
「魔女の赤字」とは「事件の真相≒事実に反することは云えない」ものとしての互いを縛るルールであり、それは「信頼し合わない者達」が、それでも対話を続けるために、対話を続けようとして、提示・構築した一種の「契約」である。契約によって互いを縛ることは、この意味において、逆説的に「互いの不信」を保証した。相手の言うことを信じられないから、嘘を吐かないことを約定する必要が生じるわけである。
 作中何度も触れられるように、「それでも赤字さえも信じない」ことは、確かに可能である。赤で言ったことは真実だ、と、信じられない相手と信じられないがゆえに約束する。これは明白な矛盾である。赤字は「より高い信頼」のための前段階に過ぎず、本当は、こんなことなどせずとも、相手の言うことに耳を傾け、その向こうにある「相手の思い、伝えたいこと、思い出して欲しいこと」へと辿り着くように考えるのが理想であった。
 厳密にはこのような関係性と矛盾を内包していた「赤字システム」は、それそのものは「通過点」に過ぎない。けれど、その圧倒的なメタレベルでの契約保証に「本当の信頼関係*1」を代替させてしまわないこと、を主眼とする狙いにとって、それは同時に「主敵」でもあった。
 赤字があれば、相手など信じなくともいい。相手が信じられるのならば、赤字などなくともいい。総ては、信頼と信用と安心と、つまりは「絆」を巡る問題になる。

・ケーキの観測問題
・ケーキのシーン。こういうののリアクションでキャラクターの描き分けが活きるし、また切実に問われたりするんだろうなあ、などと若干の横道。
・解くこと、の楽しさ。なぞなぞ遊びになぞらえて。
・真里亞の問題が……。
・確率は、「事実」は、事後的に与えられる情報で変化する。論理は「不変の不可能」を証明する。ならば、その「論理」に逆らうものは何か。守りたい「真実」があるのならば、自分自身の手で守らなければならない。「論理」は「不変の不可能」をこそ証明した。それならば、あなたが己の「真実」を預けるべきは”論理ではない”。

 EP8は、端的にやり過ぎ、ないしは”くどい”部分もある。譲治の語る、「論理」に「己の真実」を託そうとすると「論理」は「己の真実」を変遷させてしまうよ、自分で守らなければならないよ、については、赤字を信じるのは不十分であることを、外部の学問的な知識からも保証しようとする場面だとは思うけれど。この辺りも、
「じゃあ、その学問的な知識に傍証してもらおうとする態度は、”外部”に”己の真実”を預けている行為に類するんじゃないの?」と云いたくなるような違和感はある。「確率論が何を言おうと、”己の真実”は不変である」が一貫した論旨のはずである。

 ひとりひとりが歩み出ては、縁寿に別れの言葉をかける。
 そして最後に、戦人とベアトが歩み出る……。
「縁寿。………少しはみんなのこと、思い出してくれたか?」
 もちろん、すやすやと眠る縁寿が答えるはずもない。
 しかし戦人は、続ける。
「確かに右代宮家は、ちょいと変わった一族だ。大金持ちだし、それを巡っておかしな噂話も飛び交っただろう。……しかしそんなのは全て、島の外の連中の勝手な憶測だ。」
「……幼さゆえに、やさしき思い出を記憶に留められなかったそなたを、誰も責めはせぬ。しかしそれでも、思い出してやれ。……忘れることが罪ではない。……思い出さぬことが、罪なのだ。」
「俺たち全員。………縁寿をパーティーに呼べて、本当に楽しかったぜ。……なぁ、みんな。」
 戦人の言葉に、一同は皆、頷く。
 皆、彼女の未来にあまりにも無慈悲な孤独が待ち構えていることを知っている。
 それを癒すことは、もう彼らには出来ない。
 ひとつだけ出来るとしたら。
 …………自分にはかつて、どれだけやさしくて楽しい親族たちがいて、………そして今も未来も、ずっと彼女の身を案じて、見守っていることを、思い出してもらうことだけだ。
「言うまでもなく。……これは幻想だ。そなたは1986年10月4日の六軒島には、辿り着けぬ。これは全て、ゲームマスターの戦人が描いた、そなたと妾たちが一夜のパーティーをともにするという、魔法幻想。」
「でも、思い出せただろ…? みんながどれだけやさしくて、………楽しく親族会議で団欒していたか、……本当のことを、思い出してくれただろう?」


・「物語」の解体と再構築。記憶は塗り変えられる、多様な側面は一意の抽象概念へと固形化する。しかし、それならば。悪意に染まった多様なはずのそれそのものを、振り返り、無慈悲で愚かなものが全てではなかったのだと、“もう一度思い出す”必要がある。その手助けだけならば、死者であっても許されるはず。

 思い出さねばならないこと、自分の手で守らなければならない”己の真実”とは、特にこの、「一意の悪意の物語に塗り潰されずに思い出す、善い面も悪い面もあった割り切れない本当の親族の姿」のことにあたるのだろう。続くメモが半ば意味不明寸前になりつつも詳しい。

・死者がもたらす、赦しの物語。
・封鎖された可能性とそれを覆す奇跡の二者択一を、対象への認識の転換によって超克する。可能性の中に救いがなかった、物事の事実は悲劇と失敗と敗北に終わった。それならば、奇跡による祝福しか、それを救う手だてはないのか? 違う、のではないか。悲劇に終わればそれが全てか、奇跡で覆せばそれが救いか。それは、あまりにもその存在を小馬鹿にしてはいないだろうか? 失敗したものに尊厳はないのか? 奇跡による事実の救いなど無惨を裏返しにしてそうであると認めているに過ぎないのではないか。奇跡は、いらない。奇跡など起こらなくとも、彼らは善人でも悪人でもなく、あれは悲劇でもハッピーエンドでもなく、けれどそれが現実で、私の胸の中には「彼らを愛している」というたった一つの真実があるのだ。
・起こりえた悲劇は、起こりえずともあり得た悲劇は、少なくともボタンの掛け違えを掛け合わせた、物事の一側面に過ぎない。確かに悲劇は起こった。起こりえた事象の数ある一が揺るがし難く発現した。けれど、それならば、そのたった一つの起こり得た一が、本当にその全てであったのだろうか? 悲劇は起こり得た、けれどまた確かに、”起こらなかった場合”だって、あり得たのではないだろうか? さてそれならば。それならば「真実」とは何だろう? 起こり得た一か? それが本当に全てなのか? そうではない。確かに起こった悲劇と、確かに起こらなかった幸せな結末、その全てを内包した、可能性の束、それ全体こそが、たった一つの、けれど無数の、「たった一つの真実」なのでないだろうか?

 この辺りでは、ぼくも、そしておそらく竜騎士07さん自身も、明確に一連のKEY作品を意識した上での文脈を背負っている。その答えとして、「事実がどのような結末に終わったかは問題ではない」と「多様さを内包した対象が、一つに限定される事象によってそれが全てであるかのように受け止められるのはおかしい」と展開したことは、その是非はまたあるとしても、ある一方向への一歩の前進だとは思う。

ベルンカステルは仕掛ける。登場人物がいくら、どれだけ納得しようとも、勝負の趨勢を定めるのは縁寿=聞き手=プレイヤーなのだから。戦いは続く。役者がどれだけ騒いでも、劇の正否を定められるのは観客だけなのだから。


「………無論よ、ラムダ。約束するわ。ゲームが終わったら縁寿は解放する。」

・解放する。さて、それでは”解放された縁寿は何を選ぶのか”。これはそういうゲームである。

 作劇として、問題はやはりここにあったのだと思う。
 縁寿=聞き手=プレイヤー。果たしてそれは、最後まで守り抜かれただろうか?
 真実を知って尚、”魔法”を信じられるか? ベアト、戦人、縁寿とその立場を変えて為された「”魔法”を巡る物語」のその最後、作者は縁寿を信じたが、聞き手ないしはプレイヤーのことを、果たして信じていたと云えるのだろうか?

 ………私が真実を得れば、……それはつまり、家族の無残な最期を目を背けることなく、受け容れなければならないことを指す。
 それを受け容れるということは、…………ひょっとすると奇跡的に家族の誰かが生き延びていて、……12年を経て帰って来てくれるかもしれないという、僅かな希望、……都合の良い奇跡を、……手放すということだ。

「…………あんたもベアトも。……あんたたちって、つくづく面白い考え方ね。」
「何がだ?」
「……ゲームは、勝敗を決するための手段でしょう? そして、それを仕掛けるからには、至上目的は自分の勝利のはず。……なのに、自分が負けるかもしれないゲームを、どうしてわざわざ仕掛けるの…?」
「絶対に勝てるゲームなんて、つまらないだろ。そんなのゲームじゃない。」
「…………………………」
「勝つか負けるか。そのフェアなやり取りが面白いんじゃないか。ゲームってのは、戦いじゃない。コミュニケーションなんだ。その過程を楽しむ。勝敗という結果は、まぁオマケみたいなもんさ。」

「………理解できた? 自分と、……その鍵の意味。」
 私は、お兄ちゃんが掛けてくれたこの鍵を握り締め、しばらくの間、自分でも理解の出来ぬ感情に、わなわなと震えた。
 お兄ちゃんに騙されたと思って、憎むのは容易い。
 だが、それを憎むのはお門違いなのだ。
 だって、……これは私とお兄ちゃんのゲーム。
 お兄ちゃんは、私に勝つために、その最善手を尽くしたに過ぎないのだ。
 ……もしゲームが、遊びのようなコミュニケーションでなく、……勝利することだけを目的とする過程を意味するものだったなら。
 フェアなゲームなんて存在しない。
 相手にルールすら教えず、右も左も分からない内に、騙まし討ちで倒すのが一番に決まってる……。
 ……お兄ちゃんは、………その意味において、悪くない。
 私を、……あの甘ったるい幻想で誤魔化して、………孤独な未来に追い返そうとしているのだ……。

 こうして、不信と信頼、勝敗を決する手段としてのゲームとコミュニケーションとしてのゲーム。二つで揺れた縁寿の心が決まる瞬間についても、単純な飛躍があってどうにも置いてきぼりを食らってしまった感がある。
 ここから縁寿とプレイヤーとの「奇妙な乖離」が始まってしまった。同一でなくとも構わないものを、感情の受け皿として丁寧に擬似同一に置いていた筈なのに、決定的な瞬間でもって切り離すという、悪手を選んでしまった。
 ここに表れるものは、何か。それは「あなた=聞き手=プレイヤーは、縁寿ではない」という、不信や迷いだったのではないか。縁寿が心変わりすることは信じられた、けれどそれと同一化して、プレイヤーまでが心変わりすることは、どうしても信じられなかったのではないか。
 それは観客が己のパフォーマンスを見て何を感じるかを敏感に嗅ぎ取る、エンターテイナーとしての嗅覚において、優れているがゆえのものであるのは確かだろう。けれどそれは、「自分の物語を信じてくれていた読者」にとっては、「どうせ分からないし、伝わらないよ」と宣言し、突き放されたに等しくもまた、あるのではないだろうか。


 引用とメモは、ここで途切れている。続く物語はほぼ全て、「起きていることを眺めている」ものであると感じたからだと思う。
 ラムダデルタは最高にかっこよかったし、戦人が「見るな」と云った死の事実を直視してなお縁寿が”魔法”に辿り着いたのは理解できた。
 エピローグの戦人の身体のみ生き残りは、ハッピーエンドとバッドエンドを「死」の事実で客観的に判別出来ると妄想している人々に「心と身体と人格と魂と記憶と」「お好みの”生き残り”とは果たして何のことでしょう?」と問いを突き付け返す諧謔として寧ろ好ましい。
 海に沈んだベアトと二つに分かれた戦人は、「事実」と「真実」を併存させる美しさとして、EP2以降、ここまでで描き続けた「”魔法”の描写」の極地として、理想的な地点であったように思う。
 事件の真相が絵羽の日記と重ね合わせて明かされなかった事それ自体は、この物語の語ることそのものなのだから、そこに「個人的不満以上の客観的欠落」があるとみるのは、人の話を聞くことが出来ないんだな、としか思わない。


 そしてぼくは、このテーマに強く同意する、おそらくは「山羊ではない読者」である。
 では、この寂寞感は何だろう?
 最後の最後になって、"縁寿には真相を見せた上で魔法を信じられることを信じ、プレイヤーには山羊の下衆な欲望としてそれを拒んだ"こと。はじめから縁寿にその運命が与えられるのを"見届けるのが"我々の立ち位置であったのなら、はじめから"縁寿とプレイヤーは物語の別の所に立っている"と、明白にしていて欲しかったこと。
 作劇上の奇妙なズレが、伝えたものは何か、生まれたのは何故か。


 冒頭の問いかけを、もう一度。
 橋を両側から架けねば成り立たないもの、あるいは、手を互いに繋がなければ成り立たないもの、そうしたものは、確かに実在する。
 それでは、”手を差し出さなかったのは”、果たして誰であったのだろうか?*2 *3 *4 *5

*1:いわずもがな、胡乱な語であり概念ではある。

*2:追記:物語(孤島の殺人ミステリ) ⊂ ゲーム(魔法か否かのゲーム盤) ⊂ 物語(ゲーム盤を巡る心のお話) ⊂ ゲーム(竜騎士07さんとプレイヤーも同じ緊張関係にある) | 『うみねこのなく頃に』の8エピソード全体を通して、こんな感じの構造に見ることも可能だと思うのですが、ぼくの不満は「第四階層」にある「作者が読者に見せてしまった不信感」にまつわる問題です。お話のテーマを一番最初に裏切ったのは(最初に裏切ってしまえば助かる、というゲーム理論的な意味において、"最初に裏切る"とはまさにテーマの真逆である)、竜騎士07さんだったんじゃないか、と。それを除けばこの作品は大好きです。が、それだけは除けないんじゃないか、という一点で気になることが生じてしまったため、落とし所が見えなくなっています。

*3:そのように考えると、この作品に対する見方そのものが、ハロウィンパーティーで語られていた「一意の落とし所」ではない姿で捉えられる必要があるのかもしれません。ただ、それでも、最後になって「あなたはプレイヤー(傍観者・観客)でしかないんだよ」と突きつけられるのは、何とも寂しいものがあります。ラムダデルタは観客から「参加」することが許されていること、辺りと併せても。

*4:送り手と受け手、物語が双方の同意の下にはじめて円満に閉じられるのならば。例えば『Dies irae』は、納得して死ぬために、一夜の夢に贅の限りを尽くした。けれど『うみねこ』はその逆をやった。物語に満足したからその本を閉じられる、のではなく、テーマに同意させて物語に満足しないままでも本を閉じさせようとした。それは一つの手法として、テーマとして、何ら構わない。評価はそれぞれがすればいいのであって、「そういうもの」として、それ自体は単体で成立している。黄金郷の扉≒猫箱の蓋を閉じるのは二人。確定観測されなかった無限の物語可能性を成立させるものは、送り手と受け手の二人だからだろう。彼らが不確定のままその扉が閉ざされることに同意すること。しかしそれはあくまで戦人が縁寿に語ったことであり、縁寿が辿り着いたのは、心理の上でも事実の上でも、「確定観測された事実を、真実で上書きする」魔法の境地である。また、物語そのものが示したのも、その境地であるはずだ。

*5: 1/8 最後の追記 : 一つの事実誤認に気付いたので、ぼくの主張は強化されてしまうのだけれど、一応最後の追記をしておきます。それは「魔女のゲームに参加した縁寿は事件の真相を見てなお"魔法"である反魂を為したけれど、現実現在時間軸の縁寿は、そのことから発展して"事件の真相を知らない(絵羽の日記の中身を見ていない)"という、書き分けは確かに為されていた」ことです。書き分けについて曖昧な認識をしていました、謝罪します。ただし、ぼくの語っている「縁寿とプレイヤーの乖離」については、寧ろ魔女のゲームの縁寿の方がプレイヤーに近い認識(これは同意いただけるかと思います)なので、結局、ぼくが問題視している乖離の問題は覆らない――ないしは強化されてしまう――わけです。魔女のゲームの縁寿にそうしたように、プレイヤーにも"たいしたことない真相を見せて肩透かしを食らわす"展開も、竜騎士07さんの頭の中に選択肢としてはあったことと思います。推測に過ぎませんが、それこそ「エンターテイナーとしての彼の優れた嗅覚」が、「その展開は色んな意味で"面白くない"」と判断し、今回のような乖離ないし「プレイヤーを山羊or傍観者として突き放してしまう」結末に至ったのだと思います。また、多くの方が指摘されているように、現実の縁寿に対し「真実を知った上で生きる」可能性が予め恣意的に封鎖されているという面でも、問題視されて仕方の無いものと思います。ぼくは事前の予想として「ベルンカステルが事件の真相を赤字で述べたものに、縁寿ないしは戦人が黄金文字の"魔法"で上書き」を想定していたのですが、そこまでベルンが悪人には割り振られ切りません(未遂に終わった)でした。思えばこれは、9791さんの云う所の「ついぞ"悪人"を描けなかったKEY」と同じ陥穽であり、それはそれとして興味深くもあります。そして、それらを含めた上で、前記の注にあるように、今のぼくは「多様な可能性の束の総体」として『うみねこのなく頃に』に心よりの感謝を述べる心境にあります。その事を改めて述べつつ、繰り返した追記の末尾としたいと思います。ありがとううみねこ。落ち着いたら『〃 翼』もプレイするよ。