『僕と一ルピーの神様』 ヴィカス・スワラップ : 偶然が証したもの。

ぼくと1ルピーの神様

ぼくと1ルピーの神様

 映画化され、少し前に話題となった『スラムドック・ミリオネア』の原作小説である。
スラムドッグ$ミリオネア [DVD]

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 インドスラムのでたらめさによって、ラム・ムハンマド・トーマスという三宗派ごちゃ混ぜの名前を与えられた孤児が、成長し青年となってクイズ番組に出場し、12問連続正解を果たして10億ルピーを手に入れる。
 このあらすじを聞くと、まず浮かぶのは「どんなイカサマを使ったのだろう?」であり、イカサマでないとしたら「スラム育ちであっても天才はその実力を発揮せずにはいないのか」*1辺りの発想になるだろう。実際ぼくも、そのつもりで読んでいた。主人公は、冤罪のイカサマで賞金を取りやめよう、とする主催者から弁護士スミタによって救われ、裁判を戦うためのクイズ全問正解の根拠として半生を語る。当然ながら弁護士も半信半疑に聞き始め……

「つまり勘で答えたら、ツキのおかげで十二問全部当たったということ?」
「そうじゃない。勘なんかじゃありません。僕は答えを知っていたんです」
「知っていた?」
「そう。全部の問題に対する答えを」
「その話のどこに”ツキ”が関係してくるのかしら?」
「僕が答えを知っている問題ばかり、彼らが出してきた。それはツイてるってことじゃないですか?」
 スミタの顔には信じられないという表情がはっきり浮かんでいる。ぼくの中で何かがはじける。怒りと悲しみの感情を抑えられなくなる。
「あなたが考えてることぐらいわかってる。ゴッドボールと同じだ。僕がインチキをやったと思ってる。僕なんか、フライドチキンとウィスキーをテーブルに運ぶしか能がない。犬みたいに生きて虫けらみたいに死ぬ種類の人間だって思ってるんだ。そうでしょう?」

 そして彼は、答えを知っていた。一度もスラム育ちから境界を越えるような立場にはいなかったし、学校にだって通っていない。孤児に生まれて教会に育って、孤児院にいたと思ったら乞食のために盲目にさせられそうになって逃げ。使用人として働いて違法ガイドとして働いてウエイターとして働いて、ただそれだけ。彼が答えを知っていたのは、そうして生きた日々の中で、たまたま得られた知識がたまたまそのままクイズに出た、つまりは全くの偶然である。
 話はそれで終わり、ではない。
 では、何か。
 それが、冒頭のあらすじを紹介したときの予断と、響き合うものである。なんのことはない、それはただ、およそ教養とか知識とかとは程遠く、場合によっては文明と遠いとさえ扱われるスラムの人間であっても、下層階級に固定された人間であっても、全く何一つ変わる事のない、”同じ人間”である、ということだ。
 知識は記号ではない。教養は所属階級を証す装身具ではない。”スラム育ちで犬のように生きて虫けらのように死ぬ”人間であっても、同じ人一人分の半生があって経験があってそこから貯め込んだ知識がある。

「いいですか、マダム。僕たち貧乏人にだって、クイズぐらい作れます。賭けてもいいけど、貧乏人がクイズを企画したら、金持ち連中は一つも答えられませんよ。僕はフランスの通貨は知らないけど、シャリニ・タイが街の金貸しにいくら借りているかは知ってる。月に最初に降り立った人間は知らないけど、ダラヴィで最初に違法DVDを作った男なら知ってる。どうです、あなたには答えられますか?」

 それは、実在の証明。記号としての知識を上に重ねていく世界観で生きている文明人たちへの回答。クイズはある種の”文明度”を計り試す指標で、これに答えられることは文明人としてのレベルを証明することと取り違えられている。けれどその本質はゲームと賭けに過ぎず、島のような断片的な知識しか持たないラムがクイズに完答することで、フィクションは壊れてしまう。誰もがそれぞれの世界観を持つ人間であって、少なくともクイズで計れるような人間性などは、たかが知れているのだ。

 現実の偶然は、物語を破壊する。本作の主人公ラムが語る半生は、本当に偶然ばかりだ。身寄りのない子供にはなんの保証もなく、起きることは何の前触れもなく突然やってくる。そんな彼が生きてこれたのは、物語を信じなかった、物語にだまされなかったからだろう。彼が関わった人物はみな、それぞれの物語を生きていた。そしてまた、その物語を守ってもいた。
親友サリムの崇敬する映画スターはゲイで(物語の崩壊)、幼い彼を育ててくれた神父は腐敗した同僚を咎めて殺され(物語の全う。殉死)、そのじつ隠れて子供をもうけていた(物語の裏面)。隣家の性的虐待を見過ごせなかったラムは仮の「弟」をやめてその父を階段から突き落とし(物語の放棄)、孤児を優しく養ってくれるセシジ氏は善人ではなく孤児を乞食にするために障碍を負わせていた(物語の崩壊)。挙げていないものも、この類型は守っている。
 主人公ラムは、どの物語の<台本>にも安住できずに生きて、それだからこそ、スラムから抜け出せないままクイズ番組出演までたどり着いた。スラムと混沌と偶然。物語を所有することを許されず、運と運命になぶられるばかりの者たち。彼は物語に覆い尽くされた世界によってはじき出され、”人間未満”として、その世界に回収されていた。既成の、自走化した記号によって枠外に追いやられていた。そんな彼の生きた軌跡が、一つ一つの経験が、偶然によってクイズに一つ一つ答えてゆく。だから、その偶然は実在の証明なのだ。*2

*1:我ながら日本人な発想だなあ、と後で思い返した。本作のテーマでもあるのだろうけど、誤解を恐れずいえば”賎”が偉業を為すストーリーに、バランスを取ろうとして天才という”聖”のレッテルを持ち出して、例外化しようとしているわけで。

*2:本作のストーリーを、あまりにも偶然に恵まれているので「できすぎ」だとする感想も散見される。それはあまりにも尤もなのだけれど、そもそも本作は「クイズに連続正解して十億ルピー当てた男の話」である。