『ペルソナ3 FES』 アトラス : 『ペルソナ3』は『ジョジョ三部』。

 和製RPGの一翼を担う『女神転生』の、外伝である『ペルソナ』シリーズ。今回のエントリでは、その第三作目にして話題となった『ペルソナ3』について書きたいと思います。

ペルソナ3フェス(通常版:単独起動版)

ペルソナ3フェス(通常版:単独起動版)

 『ペルソナ』3と4を語るとき、真っ先に触れられるのは「コミュ」システムじゃないかと思います。物語は主人公が高校入学のために入寮するところから始まって、その新しい街で、様々な人と交流を深めながら学校に通い、満月の晩に現れる謎の怪物「シャドウ」との戦いを進めていくものです。コミュシステムとはそのままコミュニケーションの事で、戦いを進められない昼の間、学校や街で人と交流し、サブストーリーを進行させることで、それぞれが対応するタロットカードの力を強めていきます。
 で、このサブストーリーやキャラクター達のやりとりを云々して楽しむのが常道なんだとは思うんですが、ぼくはメインストーリーがあれば必ずそっちを向いてしまう人間なので、ここでは、あまり語られる事のない、『ペルソナ3』本筋のストーリーが一体何をしていたのか、ということを考えていきたいと思います。
 あまり長々と書く気はないのであっさり言ってしまうと、それは「人にとって世界の終わりとは、自分が死ぬときのことなのか?」という問いを立て、それに答えようとするものだったのではないか、ぼくはそう読みました*1
 黒幕の意図はありていに言って『ブリーチ』の藍染です。

最初から誰も
天に立ってなどいない
君も
僕も
神すらも
だが その耐え難い天の座の空白も終わる
これからは
私が天に立つ

 昔ながらの「世界征服」にポストモダン状況みたいなもので言い訳を追加したもので、ええと、「神もいないみだいだし善も悪も究極的には理由がないみたいで辛そうだから、自分が代わりに神として君臨して、世界に確固とした基準を取り戻してあげよう」という、「問題に答えられなければテスト用紙を燃やせばいいじゃない」的なものです。で、じゃあ、それに立ち向かう構図になっている*2主人公たちにはどんな理路があるのかと、そういう話をしようとしています。
 で、ここの根拠が先述したコミュシステムと繋がっているわけです。
 そもそもストーリーはタロットを模して展開していて、そのタロットは「人の一生」を模したものです。<愚者>で生まれ<世界>として終わる、一は全、全は一とかそうした神秘学のあれです。黒幕や、主人公がシャドウの発生源であると判明するシーンでは「死神」、青年期における精神の死・生得的な第一次の価値観の崩壊、が宛てられていたり、とまあその辺りです。
 それでは死ぬときに、自分が<世界>に溶け消えてしまうとき、彼の全ては終わってしまうのか。それならば自分が死ぬということは世界が終わることとなんら変わりなく、自分が死んでしまうとしたら、この世界がどうなろうと、それこそ滅んで消滅してしまおうとも、べつにまるで構わないことになります。
 これと戦って、NOと言う。その根拠は?
 これが、コミュです。つまりは、自分ではない人間。自分が関わって、大切にしたいとか、自分が死んだあとも生きてほしいと思えるような、関わりを持った、他人たちです。だから「リア充ゲーム」とか愛を込めて揶揄されるわけですが、これがその根拠となります。
一応、物語には二つのエンディングが用意されています。バッドエンドの方は、全てのシャドウが解き放たれて世界の終わりを待つだけとなった世界で、無駄な抵抗はやめ、学校の友人とカラオケに行ってそれで終わりです。これの意味するところは容易で、つまりは「自分の死は世界の終わりなのだから、死を早めかねない抵抗なんかせず、最期までをせめて享楽的に過ごそう」という選択です。
これに抗うグッドエンドは、これと戦い、主人公は「命の答え」に辿りつき、<ワイルド>のタロットを引き出して自分の生命と引き換えに滅びのシャドウを止めます。ここでの演出は、先のバッドエンドと違い、深く関わった全ての人の記憶を振り返り、それを糧にして主人公は<ワイルド>という未知のカードを引き出すことになります。
 同じくタロットをモチーフとした『ジョジョの奇妙な冒険 第三部』において、最後の敵ディオのスタンドは<ザ・ワールド(世界)>でした。時よ止まれ! そしてディオは不老不死の吸血鬼です。死に向かって流れる事のない生は、その時を止めています。そして<世界>。繋がってこないでしょうか? 
 どちらの作品も、それぞれの形で「死」への恐怖が誘うものを打倒したのです。『ジョジョ』においては死から永遠に逃れ続けることによって止まる時間を、「そして時は(死に向かってでも再び)動き出す」こと*3。『ペルソナ3』においては、自分の死に世界の死を道連れにせず、自分が死んでいなくなってしまう世界のために、自分だけが死ぬこと(これはごく普通に死ぬこととなんら変わりはない)を受け入れること。
 どちらも共に、自分に流れていく時間と、それによってやがて訪れる死を直視し、ありのまま自分自身を全うしてその時を迎えること。そんなことを描いていはいないでしょうか?*4

*1:一方、ぼくの好きな柴田ヨクサルの『エアマスター』では「それは今生きている自分人それぞれが 世界の始まりから終わりなんだ…」とあるわけですが、機会があったらそれについてもいずれ書きます。『ハチワンダイバー』の話がその辺りまで来たら?

*2:はじめは漠然と、バケモノが襲ってくるけど自分たちには能力があるから戦おう、という場当たり的なものです。しかも満月の晩のシャドウは封印で、それを主人公達が殺したせいで、世界は壊れていきます。黒幕は能力を持たないので、本当に既存の世界を地ならししてしまえる存在としてシャドウを崇め、主人公たちに狩らせています。

*3:だから三部では「仲間が死んで」いき、ポルナレフが裏切ったディオに揺さ振られるシーンがあるんでしょうね。「おれはいま、光の側に立っている」でしたか。

*4:そんな自己犠牲をいきなり渡されてしまった、生き残った側はどうすればいいのか? 『ペルソナ3 FES』では、それを抱えたまま残された仲間たちが「巻き戻せる時間」を前に、意見を真っ二つにしてぶつかり合うさまを描いています。