『戒厳聖都』 ニトロプラス(監督・シナリオ 奈良原一鉄) : 剣鬼

 全ては、但し書きつきの”死者の夢”ではあるが。

BLADE ARTS 刃鳴散らす Original Soundtrack

BLADE ARTS 刃鳴散らす Original Soundtrack

 いきなり私見で申し訳ないのだが、ぼくはゲームメディアにおける「ゲーム性」の必要性について、若干、懐疑的である。それはゲーム性などいらないと無碍に全否定しているのではなく、TV・PC問わず、「ストーリーはゲームの楽しみを増大させるサブだ」という場合と「ゲーム性がストーリーの楽しみを増大させるサブだ」という場合の両方があり、そのどちらもが成立しうる*1と考えるからだ。
 そして、本作と関わるので少しだけこちら側に寄せて話をするが、ゲームを一つのストーリーメディアとして捉えるとき、ゲーム性でストーリーを演出することが、そうしたメディアの発揮できる強みの一つとなるだろう。
 その意味で、本作『戒厳聖都』は面白いことをやった。


 前作『刃鳴散らす』のファンディスクにして亜流続編の本作。全ては、武田赤音と伊烏義阿の殺し合いを突如復活した石馬戒厳に奪われてしまうところから始まる。東京中の均衡を崩壊させて果たしたはずの二人の戦いは、終える直前になって「伊烏義阿の肉体を、石馬戒厳が”帝”を再臨させるための器として奪う*2」ことによって簒奪される。
 黄泉より舞い戻った戒厳は伊烏の肉体に”帝”を封じて祭り上げ、彼の人を君と据えた不死者の”不士”による、東京を死都(首都)とする帝国を造り上げる。そんな中、記憶を失った一人の青年が、東京に立ち寄った藤原一輪と再会して”ゲーム”はスタートする。ボロボロの刀を携えた青年を、不死者として蘇った街の人々は”武田赤音”と呼ぶ――。
 ゲームはマップ移動型の戦闘RPGとして進行し、二人称でプレイヤーごと呼ばれる「あなた」が、東京タワーの頂上にいる惹かれて已まない「誰か」と決着を付けるべく、入口の鍵を持つ四天王*3を始末して回るものだ。
 四天王は各人各様、生前の妄執を肥大させた人格をしており、あまりストーリーとして語られる分量は多くないが、それでもしっかりと、それぞれの想いを果たすようにして斬られ散ってゆく。桂葉恭子は相変わらずの凡庸な敵として相対し斬り伏せられるが、彼女の望みであった”可愛い子”に看取られて逝き、八坂竜騎は決して倒せない敵として立ちふさがって、かつて守りきれなかった主の遺髪を受け取ることによって昇天する。”姉”は「あなた」に復讐するべく何度も執拗に戦い続け、”彼”との思い出の剣技によって散り、”赦される”。

 ひび割れた遮光器が外れ、滑り落ちる。
 その下にあったのは――澄んだ、人間の双瞳だった。
「わたくしを止めてくださるのですか。
 わたくしに終わりをくださるのですか。
 もう苦しまなくても良いと仰るのですか。
 何もかも、わたくしのせいだったのに。
 なにもかも、わたくしが悪かったのに。
 わたくしに、赦しを与えてくださるのですか?
 そのような、虫の良いことを信じてよろしいのですか……
 こんな、優しい最後を……わたくしに」

 全ては、但し書きつきの”死者の夢”ではあるが。
 かつて生きた人間であったときは、それぞれに無念を抱えたまま赤音に殺された各人が、”不死者”になることで、その無念を晴らすことを許され、昇華して散っていく。生きた人間のままでは”剣鬼”に飲み込まれてしまうそれぞれの想いを、死者の夢であるという一点を付すことで果たす。前作『刃鳴散らす』において”人間を全うしてみせた”弓だけが登場しないのも道理である。


 さて、ここまでいくつか奇妙な書き方をした。既プレイの方はネタが割れてしまっているのだけれど、「あなた」とは武田赤音その人なのだろうか。本作の「ゲームシステムを利用した面白いところ」とはここである。四天王との戦いの後に待つ、石馬戒厳との決着のシーンにおいて、「あなた」は。彼は。

 指呼の間合に至り、戒厳は加速した。
 有り得ぬ速さ。悪魔の迅雷。
 只人の枠に縛られる君を、魔人は遂に凌駕する。
 閃光が君の胸を指す。
 風すら越えて光の速度で君の死を告げる、その切先を迎えて、君は――

 飛翔した。
「――――!!??」
 そう。
 これが君の魔剣。
 長い探求の果てに君がつかんだ剣。
 君だけの技。
 この世で君だけが使うことを許された、
 君、ただひとりの魔剣――――


 魔剣 昼ノ月

 伊烏義阿、その人である。
 設定上は、帝の器となって放擲された伊烏の魂が、赤音が不死者として蘇った際にその身体に宿ったというものだが何にせよ無茶設定なのでそこはいい。重要なのは、その意図するであろうところだ。
 RPGにおける、ゲームシステムがストーリーに対して果たせる機能の一つに、「主人公との一体感」が挙げられる。ありていに言って、主人公が弱いときはザコにも苦戦し、強くなってからは特技のエフェクトが派手になる・数値がインフレを起こすなどの同期を計ることによって、プレイヤーと操作キャラの一体感を強める演出などがこれに含まれる。
 本作はこれを逆手に取る。そうした基礎的な演出によって一体感を高め、いざ、戒厳を越えて伊烏義阿ともう一度決着を付けるのだ、という段になってこれをひっくり返す。効果的である。浮かび上がる構図は、武田赤音が伊烏義阿を前にし、記憶を取り戻して今度こそ終決→伊烏義阿が伊烏義阿と戦う? となってプレイヤーの作中におけるアイデンティティは揺らがされ、さらにもう一段先へと進む、準備段階を終える。
 戒厳を退けて伊烏は伊烏と戦うのか? 物語はそうは進まない。今度は”帝”の存在様式が明かされ、そこに”武田赤音”が宿るのだ。ここに、前作『刃鳴散らす』において語られ祀られてはいても明かされることのなかった”帝”もまた補完される。帝は自身を語る、自分もまた人でありながら人間を越えて「象徴」に成ることを果たした「現象」なのだと。彼は人にして国でありまた街でありまた臣民の人々であり*4、だからそこには”武田赤音”もまた含まれるのだと。こうして街中に散らばった武田赤音その人の記録と記憶とを習合し、帝はまた臣民の一人でもある伊烏義阿の願いに応えて”武田赤音”となる。
 全ては、但し書きつきの”死者の夢”ではあるが。
 そんな”二人”が雌雄を決する前に、その場にはもう一人の「現象」がいる。石馬戒厳だ。彼女もまた帝に全てを捧げる現象であると同時に、武田赤音に何かを感じて已まない人間であることは前作のミニゲーム『戒厳の野望』において明かされていた。そんな彼女が「帝から身体を奪って顕現した武田赤音」に対して斬りかかるのは自明の理だ。赤音に組み伏されて彼女が悟るものもまた、そんな「現象」としての自身の在りようだろう。

「陛下が……御自身の中に、君を呼んだのか……!」

「……これが……っ。
 これが……陛下。貴方の導かれたことならば」
 それまでどこか茫然と、虐行を受け止めていた戒厳の相貌に
 少しずつ――次第に大きく。
 それは石馬戒厳と最も縁遠い、縁遠いはずだったもの。
「この戒厳のすべても、貴方は御認めになると仰せか!
 汚らわしきわたしも!
 ……ならば、
 ならば、何を迷いましょう!!」


「わたしは、お前の存在を認めない!
 わたしと違うわたしなど認めない!
 お前を消す! わたしの中に、喰らって消す……!」

 それは相異なる現象と現象との、絶対の決裂、そして、永遠の闘争。帝を信奉し全てを捧げるのならば、石馬戒厳は帝の為した全てを受け入れ、一体化するのか。そうではない、それは人間の思考であり、石馬戒厳は始めから人間などではない。だから石馬戒厳は自身を全うすべく、武田赤音と文字通り喰らい合う。それは石馬戒厳の本然を全うすると同時に、伊烏義阿と武田赤音のそれを体現する行為でもある。どちらかが果てるまで、自分だけが全てを喰らい、自身がそこにそうして在ることを、存在としてのレベルで肯定し昇華するまで。現象に純化された、人間の向こう側にいる彼らは、絶対的に、殺し合い喰い合うしか無い。

 ――おれの方がお前より強い。
 おれはお前より単純だからな。
 おまけに低能ときたもんだ。
 どうしたって、おれの方が純度は高くなるさ。

 武田赤音は石馬戒厳を”喰らい”、けれど決してそれに満足などしない。彼にとって帝や日本人の本然を論じたイシマ思想など心底どうでもいい些事であり、彼の本然は伊烏義阿との刀による喰い合いに他ならないからだ。
伊烏義阿は食事を終えた武田赤音と向き直り、ようやくその時を迎える。武田赤音の身体に宿った伊烏義阿、伊烏義阿の身体に宿った武田赤音、どちらもがどちらもであり、またどちらもが、決して同じもう片方では在り得ない。そしてその両方でもありどちらでもなく限りなく交換可能でありまた不可能でもある構図に組み込まれたプレイヤーである「あなた」。全ては完成され、後に残るのは相喰らい合う斬り合いの時間だけ。

 君は駆け出す
 彼は待ち受ける。
 接触はほんの、刹那の未来。
 戦うべし。
 伊烏義阿。君の結末はここにある。

 話がここに至れば全ては全くの蛇足に過ぎないのだが、生き残った勝利者の扱いにおいても本作は『刃鳴散らす』の向こう側を見せてくれた。前作において生き残った者の死は、たとえ他の誰にも汚されることのない「自刃」であったとしても、当の武田赤音が、役目を果たしたはずの刀をもう一度自分に対して振るうことで、幾ばくかその純度を減じていた。
 本作は伊烏が伊烏義阿の肉体を殺害せしめるという点において重ねられているのだが、その向かう先で、己の本分を果たすための行為となっている。

「満足、したのか」


「不満たらたらなんだろうが。
 そりゃそうさ。
 結局のところ、おれは紛い物のおれだからな。
 真性のおれじゃない」

 伊烏義阿は、かつて武田赤音がそうであったように、宿願を果たして死ぬ。けれどその在りようは、生きた頃と全く同じベクトルを持っていて。伊烏義阿は、武田赤音と斬り合って勝った後、"本物の武田赤音"と斬り合うために逝く。今度の死は、その純度を決して損なわず、それをさらに全うするためのものなのだ。

 君は剣鬼。
 人にして人ならず、その身は一刀。
 求めるは至極の練磨。
 討つべきは己を凌ぐ者。


 故に。
 君は立ち止まってはならない。
 常に、一歩ずつでも、先へ進まなくては。
 向かうのは何処でもいい。後ろでさえなければ。前でさえあれば。


 それが君という刀に描かれた刃紋。
 なればこそ君の魔剣は有る。
 月は太陽を追い、天空を駆け続けるもの。
 決して止まらず。いつか、追いつく時を目指して*5

*1:「エロ不要」「批評不要」含め、自分にいらないものを勝手に客観化しようとしているようにしか感じられない。勿論、ある論脈を立てた上で「この文脈において」と語るなら有りだと思う。

*2:しかしメチャクチャである。片っ端から(笑)と付けたくなって仕方がない。いいぞ、もっとやれ。

*3:ここも笑うところである。四天王って……。しかもデュラハンなんて名前で自分の首を抱えた”姉”の彼女がいる。

*4:おっかないので一応付記、ぼく自身の天皇制への考えとは一切関係ありません。あくまで作品の話。

*5:ここでは引用を控えたが、スタッフロール後、戒厳が自省するシーンに続く。そこで語られる内容もまた、ここに引いた文と全く意図を同じくするものであることを付記しておく。