『刃鳴散らす』 ニトロプラス(奈良原一鉄) : 鬼刃

BLADE ARTS 刃鳴散らす Original Soundtrack

BLADE ARTS 刃鳴散らす Original Soundtrack

 ニトロプラスで刀で復讐譚といえば、それは『鬼哭街』だ、とするのが一般的だろう。
 けれど本作、奈良原一鉄シナリオ監督の『刃鳴散らす』をプレイした内の幾人かは、その冠をこちらに委譲するものと思う。ぼくもそんな一人だ。

 舞台は現代にして、けれどこの世界とは似て非なる歴史を辿った日本。
 そこには原爆投下失敗を起点として生まれた首都ではない一都市、東京があり、イシマ思想(偶像として成立した三島由紀夫のようなもの。驚異の右翼ロリ属性だ)からなる銃火器に寄らない暴力――刀術や棒術――が渦巻いていた。

 と、舞台説明はあまり意味がないだろう。

 ここで語られるのは二人の鬼人、強敵に飢える武田赤音と、彼を仇と追う伊烏義阿とが、雌雄を決するまでの物語である。



 二人の男を巡っての復讐譚、それは先にも述べたように同社ニトロプラスにおいては先例がある。それもかの代表ライター虚淵玄の手による『鬼哭街』だ。今作は大胆にもこれに挑み、乗り越えようとも取れる試みを見せる。*1

 『鬼哭街』において、二人の男の人生を賭けた相克の背後には「妹」の引力があった。かつて妹を陵辱され魂魄を分解された孔濤羅は、その復讐の果てに、全ては妹の兄を愛するが故の策謀であったことを知り、それに飲み込まれるようにしてその復讐を終えた。復讐される方の豪軍はといえば、まるで狂言回しでさえあるオチだ。

 全てはライター虚淵の女性崇敬、屈折したマッチョイズムの為せる業とも解釈できよう。加えて彼が、どこまでも「人間」に拘るしかないライターであるということも。たとえば彼はノベライズ作品である「Fate Zero」においても、原作奈須きのこの持ち味であるところの「現象」と化した人物像に対して、どこまでも詳細な書き込みを行ない、それをウロブチで埋め尽くした。*2

 この文脈において、『鬼哭街』で見せた結末は、つまるところ「人間」としてしか復讐の鬼を描けず、それゆえに、そこには虚淵当人の意識であるところの女性崇敬が全ての始点と帰結として描かれざるを得なかったと、そう解釈してもいいだろう。というより、本作『刃鳴散らす』は、おそらくは『鬼哭街』をそう捉え、それに対して放たれたアンサーであるように、読める。

 こちらでの主人公が、追われる側、復讐される側であることから全ての回答は始まる。「人間」ではない鬼、それも復讐鬼ではなく「剣鬼」を描き切って見せること。『鬼哭街』に向かって、「結局"女"を畏れるか、ヌルい鬼もいたもんだ!」とやり込めてみせるために、まずはそこから入る。


 全ては――終生のライバルと、最高の舞台で、無謬なる決着を付けること。

 それを成さしめたと信じた若き赤音の前に突き付けられる、女の「人間」。そこにして、刀の鬼である武田赤音は一迅の血刀を振るい、"復讐譚"が幕を開ける。

 二人の剣交わす舞台がそうしたものに移った以上、相手である伊烏義阿もまた、「人間」を踏破せしめる「剣鬼」でなくてはならない。"あの姉"はそうした舞台設定への赤音によるお膳立てであろうものとして理解できる。かくして赤音は、封鎖された東京中を滅茶苦茶に掻き回し、望みの一戦に辿りつきその"魔剣"を煌めかす。
 復讐は誰が誰に為したものか。伊烏が赤音に? それはあくまで現象面に過ぎない。全体を通して見れば、「剣鬼」が己を穢した「人間」に復讐したのだ。


 それでは、試みとして、武田赤音が糸を引くその復讐譚は『鬼哭街』を打倒しえたのか? ぼくはこの点について、半分半分であった、と首を傾げざるを得ない。

 確かに、ウロブチであるところの女性フォビアは克服された物語であるように、というかそもそも彼、奈良原一鉄にあって元々問題になっていない部分であったようには思う。女性は物語において時に愚かに(第二局長)、時に人間として強く(瀧川弓)、あるいはごく等身大の人間として(鹿野三十鈴)、またあるいは、遥かに後景化し成り行きを見る者として(藤原一輪光秋)、どれも超越的な何かとしてではなく*3描かれていた。

 けれどそれでは、「人間」はどうか? 

 ぼくはこの点において、奈良原一鉄は徹底し切れなかったものがあるのでは、と感じてならない。死合を終えた彼の結末が、紛れも無く「人間」であるからだ。

 勝敗を分けたものは何か。
 おそらくそれは、技の優劣ではない。
 天運でもないだろう。
 あるいは、
 復讐のために剣を握り、勝たねばならなかった伊烏と、
 剣のために剣を握り、勝敗はその結果とのみ捉えた赤音と、
 二人の間にあった純度の差が、糸屑程の、剣速の差となって顕れたのかもしれない。*4

 剣鬼の刀の銘は<風>、それは実体を持たないもの、往き過ぎるもの、「現象」。
 もう一人の復讐鬼の刀の銘は<塔>*5、それは実体を残すもの、積み上げるもの、「人間」。

 刀は己の刀としての本分を為し終えて、それを失ってしまった。刀そのものになるのではなく、人間に戻ってしまった。
 結末において彼は「人間」だった。
 彼自身が「剣鬼」なのではなく、彼と刀が一つであるとき「鬼刃」であったに過ぎず、それは"風"が掻き消えるようにして果てた。*6
 そしてそのとき彼にはもはや何も無く、花散らすのみであろう。*7

*1:四章章題も『鬼哭街』。

*2:それはそれで「イスカンダル」という得がたい収穫があったので、結果としてアリだとは思うけれども。

*3:一輪に超越性を見出す向きもあろうが、それは誤読に思う。渡四郎兵と対比すると分かり易いと思うのだが、一輪は刀と関わる人間に限り、本質を時間空間ともに物語として見抜く。けれど"見ることしか出来ず"、刀として結晶化も出来るが、事態に主体として介入する術を持たない。渡は逆に、物事の構造を見抜くことに留まらず、完全な模倣を行えるが"時間的な理解に決定的に欠き"、優越は限定的、時として滑稽な存在にさえ堕する。つまり、「人間」が「刀」として磨きあがるまでの難道を描こうという本作において、"超越的な、人間"は老若男女問わず、きちんと排されているのである。

*4:この後に続く、〝だが、益体もないことだ。きっと、彼らの間に差などなかった。ただ、コインを放れば表と裏のどちらかを上に向けて落ちるように、結果が出ただけなのだろう。〟部分が、おそらく奈良原一鉄さんの「剣術観」「勝負観」だと思うのだけれど、そちらは『装甲悪鬼村正』をやらないことには一作品では事例が少ない。特権的な「作者」でありながら、我も人の身ならば天の運びなど預かり知りようも無く、という語りに徹するのが、乾いた魅力とも淡白とも映る。

*5:違います、恥ずかしい事に。コメントにて指摘。"はな"とのこと。本文の文意はずれないので注にて訂正。そうすると伊烏が哀れにも、豪軍の入れ換わりに復讐する側での狂言回しとして、思ったよりも色合いが濃い。

*6:渡に赤音がそう返答するように「掌の上であったり利用したりされたりするのは当然で、その上で、当人自身の満足や納得が有るか否か」を問うのだろう。だから同じ作中で、弓の「人間」が全うされたうえで、赤音の「鬼刃」も全うされ、厳密には没交渉のまま時に現象面で衝突するだけである。奈良原さんはその意味で、『鬼哭街』的な人間と現象のテーマ的対立軸そのものを、無化している。鬼でも人でもなく、一時の鬼刃。"かぜ"の銘はあまりにも正鵠を得てはいないか。

*7:ぼくの望んだ結末を余禄。仕合を終えた赤音が、階段を踏鳴らし登ってきた、矛止めの会とも瀧川商事とも新宿ともつかぬ勢力に取り囲まれ、今にも斬りかかられようとしている。無言の赤音がゆっくりと振り返り、剣戟の鳴と共に暗転、スタッフロール。ワタナベさんが喧しいエレキと共に熱唱。あぁこれは、「現象」として完成した赤音が百人斬りで皆殺しにするんだろうな! と落として欲しかった。あらゆる意味で人間に超越や絶対を与えず、静止した状態としての正解や完成を認めず、最後の東京の夜景なんかも、「空間」的な構造だけでなく「時間」的な巡り合わせなくしては成り立たない一瞬の煌きとして描く。そういう矜持の人なのだろうなあ。