『忘レナ草』 ユニゾンシフト(渡部好範) : 【はしがき】 「人形」と「所有」

 ええと、ですね。(こちらは「です・ます」調で)

 本当は、ヒロインの「所有」って云々、みたいな話をしたくてひっぱりだして来た作品だったんです、『忘レナ草』。
 『AIR』の最後の方でカラスになって〜の話よりもさらに、主人公が人間として真っ当に機能している状態で、ヒロインとの関係性が「所有」とは程遠い点があるので。この話を持ち出すと早い話として、主人公がヒロインの側の意思によって拒絶される、「フラれて」しまえばそれで解決じゃないか、ともなります。けれどそれが他者性とか自立性として露悪的過ぎないかという突っ込みもまた成立すると思うので、じゃあどうなるのか、その回答の一つとして「主人公の助ける・守る、を拒む」を落とし所とするのはどうだろうか、と。

境界戦線―マージナル・バトルライン (サンデーGXコミックス)

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 やまむらはじめさんの連作オムニバス『境界戦線』の中の一つに、無法地帯と化した封鎖区内で「少年が、車椅子の少女を守ろうとする」話があります。道路とかもボロボロなんで、車椅子で取り残されると移動なんか出来たものじゃありません。それで少年が色んなことを助けようとするわけですが、次第に少女はその関係のバランスにいらいらしてきて……という。結局は理解しあって無事和解するものの、少女のフラストレーションが爆発するシーンとか、今でも印象に残っているので引き合いに出しました。以下は『忘レナ草』より。沙耶を愛するあまり『人形』にしていた真綾の告白、

「ホントに…… 沙耶の言うとおりよね。
 あたし…… あの子の事、自分の人形にしてたんだと思う」
「全部、沙耶のことはあたしがしてあげて、沙耶が傷つかないように一生懸命……
 なんでもしてあげて、あたしはただ、沙耶が笑ってくれるだけでよかったのよ……」


「それなのに……
 結局、沙耶を一番傷つけたのは…… あたしなんだね……」

 佐藤友哉さんの『水没ピアノ』のテーマの一つにもなっていましたね。


 『忘レナ草』では、主人公と沙耶の間には、真綾との関係を踏まえた上での「対等さ」が志向されていて、それはかなり成功しています。"生"を奪い取っていたはずの主人公が、沙耶の死期を知って逆にそれを救おうと、"生"を与えようと試み、さらに逆にヒロイン自身に「自分に決めさせてくれ」と言われ、それに寄り添い見届ける事になるわけです。主人公の立ち位置は「収奪者→庇護者→対等者」と推移し、上からも下からもヒロインの意思をエゴで汚さず、「所有」していません。
 上記の"生"を奪うための手段がセックスである事や、"生≒性"と、音や文字が重ねられている事や、死神エアリオが砂時計を砕いて人間たちへの関与をやめる事や。『忘レナ草』はメタギャルゲー的な視点を若干含んでいて、結末が自己否定的で暗いです。2002年当時に自省的な執筆方針を以てシナリオを書くならば反動的な「行き過ぎ」はある意味で当然かもしれませんが。

 それじゃあ、似たような方針で、明るいものはないのか。これに対してすぐに思いつくのは『Fate/stay night』における「セイバールート」でしょうか。

フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] PlayStation 2 the Best

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 士郎がセイバーを真に愛しているならば、彼女を現世に留めておく選択は出来ない。ああでも、あれも「別れ」に帰結しているといえばしています。けれど例をセイバーに限らなければ。Fateでは、凛は自立的な人格だし、桜に至ってはあの反転で、女性キャラをヒロインであっても独立した人格として扱う、という点においても進んでいると言えそうです。


 と、なんだかぐだぐだ書いていましたが、結局ぼくの問題意識としては、フィクション全般が自身のフィクション性と向き合う(作者は神か。物語における偶然と必然は。みたいな)態度の持ちように興味があって、それがエロゲーみたいなメディアになると、エロゲー性と向き合うというか、ヒロインが予定調和的に主人公と結ばれてしまう性質とどのように向き合い、処理するのだろうかと。そんな感じのことをつらつら考えてみました。