『PSYCHE プシュケ』 唐辺葉介 : 世界の台本と僕、そして光。

PSYCHE (プシュケ) (スクウェア・エニックス・ノベルズ)

PSYCHE (プシュケ) (スクウェア・エニックス・ノベルズ)

 作品には死の匂いが満ちている。あるいはもう、誰も生きてなどいないのかもしれない。

どうせ僕には、自分が見ているものしか見ることが出来ないんだ。

 世界には<台本>が用意されている。
 もっと平たく、かつ公平に物言いするならば役割、ロールといってもいい。人は多くは他人との関わりの中で生きていかなくてはならないし、そのそれぞれに応じた振る舞いや対応といったものが求められる。
 それは本作の主人公である直之にとってもまた、例外ではない。彼は飛行機事故で共に暮らす家族全てを失った人間であるが*1、そのショックのままに何もかもが滅茶苦茶な世界の住人になれるかというと、そうではない。
 それが<台本>。彼は元からアウトサイドである駿兄を除く周囲の人間全てから、その視点を通しての解釈で、役割を押し付けられそうになる。例えば、伯母さん夫婦は彼を傷心によって壊れかかった人間として扱い、その「治療」をこそ真っ当な脚本として認識する。

「帰らないで。でも、今日はこれから一緒に病院に行こう。もう予約も取ってあるの。<中略>
でも、用事を済ましたらまたここに戻って来てね。あの、本当にごめんねナオちゃん。言うのが遅くなっちゃって。伯母さんたちもこういうとき、どうしたらいいかわからなかったの。でも、もう大丈夫だから。一緒にがんばろう?」

 クラスメイトである大島君は、彼に「学生らしさ」を取り戻させるような<台本>を。

「だからさ、お前がサッカー部に入るってのはどうだ?」


伯父さんたちが帰ったあと、大島君から電話がかかって来た。
「なあ、この前の女の子が、また合コンやりたいって言って来てるんだ。佐方のことが気に入ったんだって。またやろうぜ。佐方もたまにはこういう学生らしいことした方がいいよ。毎日寂しいだろ?」


「前からつき合いがいい方じゃなかったけれど、最近はとくにひどい。そりゃ、佐方はいろいろあって大変なんだろうけど、たまには遊んだ方がいいと思うんだ」

 新井先生は彼に、「芸術家肌は世間に馴染まない」とする<台本>を。

「そうね。そういうのも、佐方君には必要かもしれないね。絵を描いて、自分と正面に向き合って。……でも……」


「佐方君は、普通の学校に進むより、美大に行った方がいいと思うんです」

 誰もが自身、それを押し付けているなど思ってないし、また、たしかに善意を実行に移す術がそれしかないだけでもある。
直之が彼らの<台本>に応じないのは、彼自身の性格によるものが大きい。彼にとっての世界への馴染めなさは、これを助けと素直に応じない、自分にとっての現実を分かち合わない、固執に起因するのも確かだろう。けれど彼自身にとって、それはもう、どちらがどちらなのか優劣の付けられないものになっている。何が現実で、何をもって現実で、そして、現実だからってそれがどうしたというんだ?



 そうして彼の世界を描いた作品にも、おそらく三つの救いの片鱗があった。一つは藍子、一つは駿兄、そしてもう一つが、光。光はカーテンの光であり、彼にとって、絵として現実の世界に自分そのものを結実できる唯一の手段だった。

 藍子には実在していないという、重大な欠陥がある。孤独を幻で癒すには、それが幻ではないという錯覚が成立していなければならない。

「あのさ、今回のことで僕が一番哀しかったし、信じられなかったのはね、あんなに人間らしく見えてた彼女の内面が空っぽってことなんだ。幻覚ってことはさ、見せかけだけで心なんかないんでしょう? あんな完全な外見のなかに、何も感じない空虚しかなかったんだ。それを思うとなんだかガックリしちゃって……」

 駿兄もまた、孤独や生きて行けない感と向き合う一つの術を持っていた。

「直之、仕組みを理解しよう。そうすれば、少しは怖くなくなるかもしれない」


「みんなね、頭のなかに部屋があるんだ。それは自分専用の部屋で、自分一人だけが内側にいて、世界のすべての人は外側にいる。窓はついてるけれど、それはとても小さくて、限られたものしか見えない。おまけにガラスが歪んでるから、見えたもののかたちも正確じゃないんだ」


「あのね、ここで大事なのは、誰もなかには入れないし、自分も外には出られないってことさ。現実でいくら会話をしても、そばにいて貰っても、ダメなんだ。誰も自分の心のなかには入れられない。みんなそういうふうに出来ているんだよ。ぽっくり病だけじゃないさ。死ぬときだけでもない、生きてるときもそうさ」

 孤独は必然であり、たとえ人と交わって生きていても原理的・究極的には全一のコミュニケーションは果たされてなどいないのだから、その仕組みを直視してしまえば、もう怖いものもなくなるんじゃないか? その考えは論理だけが正しく、それを抱いて生きた駿兄もまた、現実を見ながら生きていく事が出来なくなり、自殺する。

 それでは絵は。光のカーテンは、彼にとって何がしかの生きるよすがとなりえたのではないか。この問いかけは、直之自身が、蝶の幻に埋もれて、手放してしまった。描く事は内実を失って自走化・自己目的化し、遂には、その行為さえも蝶の幻に取り込まれる。

「なんの絵を描くの?」
 イーゼルの前に座っていると、蘭子が楽しそうに訊ねて来る。
 そのとき僕は最初に描こうとしていたものを諦めて、少し違うものを描こうと思っていた。前のテーマは散々失敗して、疲れてしまった。僕は楽しいものが描きたかった。もともと楽しいことの方がずっと好きなんだ。毎日楽しい事だけを考えて、そうやって生きてゆきたかったんだ。彼女とデート、サラリーマン、マイカー、年に一度の温泉旅行、大きい犬。僕の夢だ。
 それは無理だとしても、ちょっとくらい何かあったっていいはずだ。


「今度はね、見えているものを、嘘偽りなく描こうと思うんだ。前までは失われたものを描こうとしたからうまくいかなかったんだと思う。やっぱり、いくら心に覚えてたって、失ったものはもうどこにもないんだ。そのとき見たものは、そのとき描かなきゃだめなんだよ」

『キラキラ』のきらりルート一週目を思い出してほしい。鹿之助があのとき歌い始め、直之が今まさに手放そうとしているもの。あるいは『SWAN SONG』における尼子司が、最期のその時さえ決して手放さなかったもの、それは何か。
 それは希望。現実が何もかもを押し流して、時間の流れが大切にしていたもの全てを奪い去って、それでも現実に何かが残っている。ぼくたちはそれを目の当たりにはしなかっただろうか。それはただ信じる事しかできない、非実在の希望。あるいは「人間の尊厳」。


――そして、現実にあるもの全てを手放したとき。
そこに生まれるのは、何もかもが夢で、元々存在なんてしていなかったんだという、世界と胡蝶の夢との同化になるだろう。現実を現実たらしめている全ての確信。それは認識しだいといえば確かにそうであり、それを心底認めたとき、そこにはもう。

「何もかもただの音楽なのよ。ある日目を覚ましたらレコーダーが止まっていてみんな死んでいる。ねえナオ、そうであってほしい?」

*1:作中のどこまでが”現実”か、という議論はここでは厳密に問わない。