『犬憑きさん』唐辺葉介 : 100億光年、隣のあなた

犬憑きさん 上巻 (スクウェア・エニックス・ノベルズ)

犬憑きさん 上巻 (スクウェア・エニックス・ノベルズ)

 雪が降る。あの震災の地獄*1を、静かに覆い隠したものと同じ雪が。

 唐辺葉介こと”彼”が物した小説の三作目『犬憑きさん』は、呪いを巡る少女たちの物語だ。犬神憑きの楠瀬歩、管狐の有賀真琴、蟲毒を作ろうとした花輪美貴に、丑の刻参りの松田浩子、ヤマヒコこと村主慶介に、反魂術の御門智徳、そしてそれぞれの親類……。呪いを自身の手で試みることのない主要なキャラクターは、田端典子とヒノエこと木下結梨の二人だけだ。
 「それ」が外界に及ぼす力自体が、真実呪いや霊の類であったのか、遠大な催眠暗示術や荒唐無稽な感染精神病の類であったのか、厳密な真相は雪に覆われている。「それ」の実体が、果たして何か? 知り得る者はおらず、そして「何か」を確定的に知りうる特権を誰もが持たないがゆえに、その閉ざされた暗い箱のなかに、「それ」は入り込む。

 すべてに対して公平な結論を下すことが出来る完全な中立者は、真琴の想像しうる限り全知全能の神しかいない。


 だから、もし世界に神がいないとすれば、この箱は永遠に閉ざされたままだということになる。それはつまり、いつまで経ってもすべてが正しくて、すべてが間違っているということに他ならない。

 そもそも人は自分が、外界の事物それそのものを直接に知覚し得ているのか、自分の瞼の裏網膜の影像を眺めているに過ぎないのか、確定させることが原理的に出来ない。そしてその「事実」は、「自分」と「外界」との交渉にあっても同じことであり、私たちの言葉は相手にそのままには届かず、行為もその意図も、曲解され誤解され、物事の歯車次第では、あるいはその食い違いの事実さえも「誰も」知覚することが叶わない*2
犬憑きさん』における各キャラクター間の、相互理解における誤解曲解勘違いからなる「ディスコミュニケーション」は、俯瞰している読者にとって明らかだろう。第一に、歩の犬神や真琴の管狐が典子には見られない。また、真琴は悪意が空回りして友達が出来たことから物語に参入するし、松田浩子は御門がヤマヒコを追う真意を誤解することで協力を申し出る。ヒノエは自身の感情さえも気付けないままヤマヒコに仕えた。……一つ一つ挙げていけば、作中の関係性のその大半に、これらの「ディスコミュニケーション」が重ねられていることが分かる。

 さて、呪いだ。『犬憑きさん』という作品にとって、呪いとは一体何であったのか?
 それは、「自分」と「外界」との垣根を壊し、境界を侵す力だった、といえる。例えば、陰惨なイジメを苦にして復讐を望んだ冒頭の花輪美貴。蟲毒は彼女の願いを、彼女が願ったそのままに叶える。彼女が「自分」の願いをそのままに呪いに仮託すれば、呪いはそれを「外界」でそのままに叶える、純粋な変換機としての役割を果たす。
 誰しもがその願いのままにひたすらに呪いを念ずればよく、それは、「自分」の意図を「外界」の世界においても通ずるものにしようと調整する、根本的な意味合いでの「コミュニケーション」の放棄と同じものになる。「外界」との摩擦が一切介在しないそこは、「自分」だけの世界であり、呪いはそれとの同一化を「外界」に強制する力だ。

 作品の主題、と大見得を切るのは危険だが、少なくとも”彼”の文脈において、『犬憑きさん』は「ディスコミュニケーション」を肯定し、暴力的な「コミュニケーション」の行き詰まりとその破滅を描いた、描こうとした、と大別できるだろう。
 そして彼の過去作をよく知る者たちにとって、「ディスコミュニケーション」とは、あの震災の地を覆い隠した「雪」であり、恋人を救うためにその父を見殺しにした彼と彼女との「断絶」でもある*3。しかし、それは彼にとって、「事実の上でのハッピーエンド」を迎えるための犠牲として描かれ続けた、世界との一体感の喪失ではなかったか?

 そんな同情をしてみたところで、彼女が取り返しのつかない犯罪に手を染めたことにはかわりない。自分も一つ間違えれば同じような犯罪をしていたとは想像出来ても、実際にはやっていないのだ。そこが全然違う。


 これを重要な違いだと理解することが、これからの自分にとって必要なんだ。彼女たちは自分そのものでも、自分の一部でもない。自分はここにいるこれっきりだ。それを理解出来なければ、本当に同じことをしてしまう。

 当人はおそらく、今度こそこれを肯定的に描こうとしたのだろう。「外界」と触れ合っている自分の「表面」だけがその意を表し行為をなすのだから、それを受け入れ、その上で折り合って生きていかなければならないと、「成熟」しようとしたのだろう。意図してかせずしてか、果たしてそれは皮肉な構図を示した。
 本作は「少女たちの物語」だ。今さら『らき☆すた』や『けいおん!』を挙げずとも、同時多発的に平行して数多世に出た、「萌えと日常」に埋め尽くされ、決定的な問題を内包していない世界を舞台にした作品と、その表面的な意匠においては共通している*4
犬憑きさん』はその上下巻の物語を通して、少女たちの精神的な「成熟」は描きえた。第一話においては花輪美貴が蟲毒から「卒業」し、相手への復讐と同時に自身も延々とそれに囚われるという円環から抜け出す。全体としては真琴が、マークに憎しみを注ぎ続けることで成り立っていた自己完結から、「ディスコミュニケーション」を通して決別する*5。田端典子にいたっては、一貫して、歩と適正な距離感を保とうと自制できている。

「とにかくね、他人の世界のなかの話をどうこう言うより、自分の世界でこの人生をいかに生きるかの方が、私にとっては何億倍も重要なテーマなわけよ。犬神だとか管狐が現実世界にいるかどうかなんて、死ぬほどどうでもいい問題だわ。もし現実に存在していたとしても、私が見えてない以上それはないのと一緒なの。わかる?」


 紀子は冷静な口調でてきぱきと説明すると、カップのなかの紅茶を一口飲んだ。


「そんなこと言うと、なんだか、典子ちゃんが遠く見えるよ……」


 歩は情けない顔でそう言った。


「何言ってんの、これまで十年近く付き合って、あんたなんか私にとって地の果てよりもずっと遠い人間だって何百回も言ってるでしょ?」

「あなた」は「わたし」ではなく、すなわち「外界」もまた「わたし」ではない。そして、「あなた」にとっては、あなたと触れるわたしの部分だけが「わたし」を意味している。「外界」においてもまた、外界と触れるわたしの部分だけが、「外界」における「わたし」を意味している。呪いと決別するとは、ディスコミュニケーションを受け入れるとは、この遠い遠い、そして幾重にもフィルターの掛かった伝わらない世界を、それでもなお受け入れる「成熟」に他ならない。

 それでは果たして、「少女」ではない者たちは?
 御門は老僧の忠告の如く、深入りを止められずに死に、ヒノエは全てを悟ったとき何も残っておらず、ヤマヒコもまた、「殺人をやめる」ことを果たせずに終わる*6。そして歩もまた、一人少女でありながらそこに留まり、しかし生き残っている。呪いから解放された真琴よりもむしろ、犬憑きさんこと楠瀬歩こそが、”彼”流の割り切れないままの「ディスコミュニケーション」に、相応しいのかも知れない。
 言葉が伝わらないこと、想いが遂げられないこと、行為が理解されないこと。それならば、と割り切れなかった全ての登場人物たちが滅んでいったなか、歩だけが、呪いに頼ることなく、呪いから解き放たれることなく、犬憑きさんのまま、何も確定しないまま、自己と外界とのあわいを、静かに歩んでいる。

「それに、誰も留まらない場所にも、一人くらいはずっと住み続ける人が必要だよ。誰かが迷い込んだときに、案内する人がいなくちゃ困っちゃうよ」

 物語は春を迎え、すべてを覆い隠す雪が溶けたあと、校門から出てゆく少女たちを見送って幕を閉じる。”彼”の物語は、かの二作のEnd2の延長線上にこの『犬憑きさん』を置いた。
 白日がすべてを晒す、桜散る春の日に、「暗い部屋」は未だ扉を閉ざしてそこに残っている*7

*1:SWAN SONG』End2を参照。と書いて分かる人には、書かなくても分かりそうですね……。

*2:少し話を先取りするのなら、「不確定」が約束されているせいで、されているからこそ、私たちは一時の仮初の「安心」を得るために「コミュニケート」を試み続けるしかない、とも云える。

*3:『キラ☆キラ』きらりルートEnd2参照。……これも、書いて分か(ry

*4:悪く云うつもりは皆無なので、対話が成立しなくてもエヴァみたいに追い込まれないゆるめの世界観、位にとって下さい。

*5:先の引用はその場面。

*6:ヤマヒコが何故、殺人を止める前にこの一件に深入りしたのか。彼は呪いによって「外界」に思う存分復讐を遂げたが、「飽きた」ように、同じく呪いを持つ「対等」な御門や真琴や歩と、「コミュニケート」する欲望を捨て切れなかった。呪いに慣れきった彼は、「外界」との「コミュニケート」を同じく呪い持つ者にしか感じられなくなっていた。歪み切った末に、孤独の袋小路にいた。

*7:彼がこの物語に「少女たち」を使ったのに、何とも時代性があるようなないような。本作をして明るくなった、と云う人もいるけれど、御門といいヤマヒコといい、「女」で「子供」の「少女たち」にEnd2的な幸福を仮託して、実際は「乖離」が進みまくっているように思えてゾッとするよ! ということが言いたかった……。ぼくは『CARNIVAL 小説版』が荒削りながらも一番健全な気がします。