『刃鳴散らす』 ニトロプラス(奈良原一鉄) : 鬼刃

BLADE ARTS 刃鳴散らす Original Soundtrack

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 ニトロプラスで刀で復讐譚といえば、それは『鬼哭街』だ、とするのが一般的だろう。
 けれど本作、奈良原一鉄シナリオ監督の『刃鳴散らす』をプレイした内の幾人かは、その冠をこちらに委譲するものと思う。ぼくもそんな一人だ。

 舞台は現代にして、けれどこの世界とは似て非なる歴史を辿った日本。
 そこには原爆投下失敗を起点として生まれた首都ではない一都市、東京があり、イシマ思想(偶像として成立した三島由紀夫のようなもの。驚異の右翼ロリ属性だ)からなる銃火器に寄らない暴力――刀術や棒術――が渦巻いていた。

 と、舞台説明はあまり意味がないだろう。

 ここで語られるのは二人の鬼人、強敵に飢える武田赤音と、彼を仇と追う伊烏義阿とが、雌雄を決するまでの物語である。



 二人の男を巡っての復讐譚、それは先にも述べたように同社ニトロプラスにおいては先例がある。それもかの代表ライター虚淵玄の手による『鬼哭街』だ。今作は大胆にもこれに挑み、乗り越えようとも取れる試みを見せる。*1

 『鬼哭街』において、二人の男の人生を賭けた相克の背後には「妹」の引力があった。かつて妹を陵辱され魂魄を分解された孔濤羅は、その復讐の果てに、全ては妹の兄を愛するが故の策謀であったことを知り、それに飲み込まれるようにしてその復讐を終えた。復讐される方の豪軍はといえば、まるで狂言回しでさえあるオチだ。

 全てはライター虚淵の女性崇敬、屈折したマッチョイズムの為せる業とも解釈できよう。加えて彼が、どこまでも「人間」に拘るしかないライターであるということも。たとえば彼はノベライズ作品である「Fate Zero」においても、原作奈須きのこの持ち味であるところの「現象」と化した人物像に対して、どこまでも詳細な書き込みを行ない、それをウロブチで埋め尽くした。*2

 この文脈において、『鬼哭街』で見せた結末は、つまるところ「人間」としてしか復讐の鬼を描けず、それゆえに、そこには虚淵当人の意識であるところの女性崇敬が全ての始点と帰結として描かれざるを得なかったと、そう解釈してもいいだろう。というより、本作『刃鳴散らす』は、おそらくは『鬼哭街』をそう捉え、それに対して放たれたアンサーであるように、読める。

 こちらでの主人公が、追われる側、復讐される側であることから全ての回答は始まる。「人間」ではない鬼、それも復讐鬼ではなく「剣鬼」を描き切って見せること。『鬼哭街』に向かって、「結局"女"を畏れるか、ヌルい鬼もいたもんだ!」とやり込めてみせるために、まずはそこから入る。


 全ては――終生のライバルと、最高の舞台で、無謬なる決着を付けること。

 それを成さしめたと信じた若き赤音の前に突き付けられる、女の「人間」。そこにして、刀の鬼である武田赤音は一迅の血刀を振るい、"復讐譚"が幕を開ける。

 二人の剣交わす舞台がそうしたものに移った以上、相手である伊烏義阿もまた、「人間」を踏破せしめる「剣鬼」でなくてはならない。"あの姉"はそうした舞台設定への赤音によるお膳立てであろうものとして理解できる。かくして赤音は、封鎖された東京中を滅茶苦茶に掻き回し、望みの一戦に辿りつきその"魔剣"を煌めかす。
 復讐は誰が誰に為したものか。伊烏が赤音に? それはあくまで現象面に過ぎない。全体を通して見れば、「剣鬼」が己を穢した「人間」に復讐したのだ。


 それでは、試みとして、武田赤音が糸を引くその復讐譚は『鬼哭街』を打倒しえたのか? ぼくはこの点について、半分半分であった、と首を傾げざるを得ない。

 確かに、ウロブチであるところの女性フォビアは克服された物語であるように、というかそもそも彼、奈良原一鉄にあって元々問題になっていない部分であったようには思う。女性は物語において時に愚かに(第二局長)、時に人間として強く(瀧川弓)、あるいはごく等身大の人間として(鹿野三十鈴)、またあるいは、遥かに後景化し成り行きを見る者として(藤原一輪光秋)、どれも超越的な何かとしてではなく*3描かれていた。

 けれどそれでは、「人間」はどうか? 

 ぼくはこの点において、奈良原一鉄は徹底し切れなかったものがあるのでは、と感じてならない。死合を終えた彼の結末が、紛れも無く「人間」であるからだ。

 勝敗を分けたものは何か。
 おそらくそれは、技の優劣ではない。
 天運でもないだろう。
 あるいは、
 復讐のために剣を握り、勝たねばならなかった伊烏と、
 剣のために剣を握り、勝敗はその結果とのみ捉えた赤音と、
 二人の間にあった純度の差が、糸屑程の、剣速の差となって顕れたのかもしれない。*4

 剣鬼の刀の銘は<風>、それは実体を持たないもの、往き過ぎるもの、「現象」。
 もう一人の復讐鬼の刀の銘は<塔>*5、それは実体を残すもの、積み上げるもの、「人間」。

 刀は己の刀としての本分を為し終えて、それを失ってしまった。刀そのものになるのではなく、人間に戻ってしまった。
 結末において彼は「人間」だった。
 彼自身が「剣鬼」なのではなく、彼と刀が一つであるとき「鬼刃」であったに過ぎず、それは"風"が掻き消えるようにして果てた。*6
 そしてそのとき彼にはもはや何も無く、花散らすのみであろう。*7

*1:四章章題も『鬼哭街』。

*2:それはそれで「イスカンダル」という得がたい収穫があったので、結果としてアリだとは思うけれども。

*3:一輪に超越性を見出す向きもあろうが、それは誤読に思う。渡四郎兵と対比すると分かり易いと思うのだが、一輪は刀と関わる人間に限り、本質を時間空間ともに物語として見抜く。けれど"見ることしか出来ず"、刀として結晶化も出来るが、事態に主体として介入する術を持たない。渡は逆に、物事の構造を見抜くことに留まらず、完全な模倣を行えるが"時間的な理解に決定的に欠き"、優越は限定的、時として滑稽な存在にさえ堕する。つまり、「人間」が「刀」として磨きあがるまでの難道を描こうという本作において、"超越的な、人間"は老若男女問わず、きちんと排されているのである。

*4:この後に続く、〝だが、益体もないことだ。きっと、彼らの間に差などなかった。ただ、コインを放れば表と裏のどちらかを上に向けて落ちるように、結果が出ただけなのだろう。〟部分が、おそらく奈良原一鉄さんの「剣術観」「勝負観」だと思うのだけれど、そちらは『装甲悪鬼村正』をやらないことには一作品では事例が少ない。特権的な「作者」でありながら、我も人の身ならば天の運びなど預かり知りようも無く、という語りに徹するのが、乾いた魅力とも淡白とも映る。

*5:違います、恥ずかしい事に。コメントにて指摘。"はな"とのこと。本文の文意はずれないので注にて訂正。そうすると伊烏が哀れにも、豪軍の入れ換わりに復讐する側での狂言回しとして、思ったよりも色合いが濃い。

*6:渡に赤音がそう返答するように「掌の上であったり利用したりされたりするのは当然で、その上で、当人自身の満足や納得が有るか否か」を問うのだろう。だから同じ作中で、弓の「人間」が全うされたうえで、赤音の「鬼刃」も全うされ、厳密には没交渉のまま時に現象面で衝突するだけである。奈良原さんはその意味で、『鬼哭街』的な人間と現象のテーマ的対立軸そのものを、無化している。鬼でも人でもなく、一時の鬼刃。"かぜ"の銘はあまりにも正鵠を得てはいないか。

*7:ぼくの望んだ結末を余禄。仕合を終えた赤音が、階段を踏鳴らし登ってきた、矛止めの会とも瀧川商事とも新宿ともつかぬ勢力に取り囲まれ、今にも斬りかかられようとしている。無言の赤音がゆっくりと振り返り、剣戟の鳴と共に暗転、スタッフロール。ワタナベさんが喧しいエレキと共に熱唱。あぁこれは、「現象」として完成した赤音が百人斬りで皆殺しにするんだろうな! と落として欲しかった。あらゆる意味で人間に超越や絶対を与えず、静止した状態としての正解や完成を認めず、最後の東京の夜景なんかも、「空間」的な構造だけでなく「時間」的な巡り合わせなくしては成り立たない一瞬の煌きとして描く。そういう矜持の人なのだろうなあ。

『ブラッドジャケット』 古橋秀之  : 夜を往くもの、明に去るもの

 本編の主人公の一人であるアーヴィング・ナイトウォーカーとミラ・ヘルシングが出逢うまで、物語は狂騒と狂想の空気に満ちている。


 積層都市<ケイオス・ヘキサ>は混沌を極め、物理法則とその科学が魑魅魍魎の類に乱され続け、それを後追いしてなんとか世界の形に治めているという構図は、この街の、あるいはこの作品世界のリアリティの縮図そのものといっていい。

 そうした混沌は都市最下層に"はきだめ"として結晶し、青年アーヴィーはさらにその底を処理する<屍体蘇生業>を生業とする。病床の母を養って、擦り切れるようにして日々を生き延びている姿は、彼自身の気性や吃音と相俟って、読んでいてつらいものがある。

 何よりも忍びないのは、彼がそうした日々の中で摩滅している自身をあまり意識せず、恨むことなく仕事をこなしていく健気な姿を見せるからだ。これは私たち自身の中にも少なくとも一片は存在するであろう、日々を生きていくうえでの心構えとも呼応して、感情移入を誘う。


 物語は、崩壊した他都市<ケイオス・トライ>からの難民に紛れ、稀代の吸血鬼<長い牙(ロング・ファング)>が街に現れることによって動き始める。娘ミラが犠牲になったその日から公平な学者の仮面を捨て去った、吸血鬼学者ウィリアム・ヘルシング。奇蹟に触れて回心した元連続殺人鬼にして筆頭聖人候補、ハックルボーン神父。主導権を狙いあう降魔局と公安局。時間を遅滞させることで低位吸血鬼として保持された娘ミラ・ヘルシング。先に述べた青年アーヴィングに、いい加減さが好人物の職場の先輩ヒューイット……。物語に登場する人物は、誰も彼もこの世界ならではの気質と人格を備え、<ケイオス・ヘキサ>の混沌を生き生きと犇いている。


 が、そんな技巧的な側面は、この物語にとっての中核ではないだろう。

 <ケイオス・ヘキサ>の、あるいはこの作品世界の、歪みという歪みを物も言わず一身にその身に受ける青年アーヴィング・ナイトウォーカー。彼に降り掛かる残酷な運命と、その行く末こそがこの物語の魅力の核心なのだろう。少なくともぼくは、そう読んだ。

 もはや人が人として扱われないに等しい都市最下層で、バラバラに損壊した死体の形を整えて日々を過ごす青年アーヴィー。<ロング・ファング>を巡る騒動から、唯一の日々の支えであり生き続ける動機であった母をその手に掛けて、修羅の夜が始まる。あらゆる歪みのままに壊れた彼は殺人鬼として最下層を荒らし回り、殺せるだけ殺し、左手を失い、父の下から逃げ出した少女ミラと出会う。


 都市の汚泥に振り回され、母を手に掛け、殺人鬼と化し。そんな彼が少女ミラと過ごせるごく僅かな時間は、あまりにも優しい。長く続かないことが目に見えている日々は、より一層の淡い暖かみに満ちていて、どこまでも切ない。


 約束された破局を当然のように迎えた彼は、その向こうに、どんな夜明けを迎えるのか?
 「<吸血鬼殲滅部隊(ブラッドジャケット)>隊長 "アーヴィング・ナイトウォーカー"」の誕生秘話である。

『Steins;Gate (シュタインズ・ゲート)』 5pb   : 【補論】 "鳳凰院凶魔"の戦い

Steins;Gate (シュタインズ・ゲート) (数量限定版) - Xbox360

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 そもそもの「まゆりの見舞われる不幸」そのものが、偶発的な悲劇ではなく、「オカリンの時空改変」のせいである。(少なくともオカリンには。かなりの確率で実際にも)

であるからにして、「まゆりを救う」=「時空改変を安易に求めたことの否定」の図式が存在している。まゆりを救うことは、オカリンのエゴだけではなくて、過去において罪を犯した自身のエゴを、糾弾するものでもあるのだ。

 そして各ヒロインは、そのトラウマの回収に「時空改変を使っている」ので、まゆりルートのエンディングまでは、「まゆりを救うオカリンのエゴ」ではなく、ひたすらに「オカリンの?贖罪?」で、一直線に解釈しても問題ない。

 で、最後にクリスで引っ繰り返して、「罪を犯し、それを償うこと」は、「じゃあ、はじめから何もしなければよかったんだ」とは、イコールにならないことが表明される。時空改変という罪を犯し、それを償った一連のストーリーを経ることによって、初めて、「時空改変を正しく使うこと」、それも「シュタインズゲートへと至り、時空改変の力を葬り去ること」という、「時空改変の否定」の完成に至る。"本当にケリをつけに行く"わけである。


 この物語は、「時空改変を使って罪を犯し、それを思い知ること」「時空改変を使ってその一つ一つの罪を償い、その痛みを背負うこと」に留まらず、「その経験全てを?無駄?には帰さず、その経験を通して、時空改変を葬り去る戦いに挑むこと」のプロットになる*1 *2

 この戦いに勝利してこそはじめて、厨二病患者であるところの鳳凰院凶魔は、"機関"との戦いに終止符を打ち、時空の支配体制を打倒出来るのでフゥーハハハハーーーーー!!!!!!




 ※こちらが本エントリ 『Steins;Gate (シュタインズ・ゲート)』 5pb : 無かったことにはしてはいけない。その行為は、決して無駄ではないのだから - 0殻 正直、補論のほうが余程まとまっている。


・関連記事
http://d.hatena.ne.jp/hasidream/20091201/1259675794
秋葉原発タイムマシンが、世界を変える - 「Steins;Gate」総評 - 偏読日記@はてな

*1:エピローグのオチや、時空改変を否定していく道筋がクリスを救うこととイコールに重なるのはご都合主義だ、というツッコミは成立する。というか『ひぐらし 祭囃し編』のように、「このくらいの奇跡ならいいよね」の系譜に連なり、あえてのノーガードにも感じる。物語の奇跡をどう許すか。これはKEYからの系譜でもある。

*2:るかエンドに、ぼくは鈍感にも何も感じなかったのだけど、こう考えると、サブルートでテーマを消化してしまわないためだったのかなあ? となると悪手だったのは、そもそもそちらに向かいかねないストーリーをるかルートに持ってきたことになりそうである。

『化物語』 新房昭之監督   : この背景は〝会話劇のため〟か?

 演出について詳しくはないので、原作者である西尾維新のファンとして、適当なことを。

 観た方は分かると思うのですが、背景が「具体的な個別性を脱色し、直線とべた塗り+影くらいから構成されていて、ほぼ抽象的な記号」です。
 で、これの解釈として一般的?なのが「西尾維新の原作が会話劇である。背景に雰囲気を持たせると必ずやズレが生じる、よって幾何学的」というものだと思います。
 で、そんなに消極的な理由なのかな? と疑問がありまして。では自分はどう思って見ているのか。「西尾維新の作風・雰囲気とあっているのは、もろにこうした幾何学的な背景だろう」という見方。とも近いのですが少し違い、「実は、西尾維新作品への深い理解があるんじゃないのか」と。
 「西尾維新の作風」なんて一口に言って語り切れるものではないのは重々承知しているのですが、ある特徴的な感触について、充分な理解と自覚的な反映が見えた気がするんですね。

 曰く、<記号→記号>の描写法。
 お前は一体何を言ってるんだ、という話ですが、ぼくは過去に「文学とライトノベルの違い」という、これまた問題設定からしてマズい予感のする問いを、真剣に悩んでいたことがあります。このときに、正解ではないのは承知で、悩んでみて悪くなかったかもしれないと思えた収穫に、<現実描写→記号的プロット>から<記号描写→現実的エモーション>への転換、という考え方がありました。
 これまたどういうことかと言うと、「純文学寄りの小説は、あるテーマや感触について、それを読者に感じさせるために現実の意識をシュミレートして描写している側面がある」という見方をとりあえず許し、それと対置するようにして、「ライトノベルは記号の順列組み合わせと追加によって、それを通して現実の人間である読者の情動に訴えかける」という見方をするものです。例外だらけもいいとこなんで、あくまで〝それぞれの傾向〟についての感想だと思っていただければ。
 純文寄りの小説*1は現実的な人間を描写するし、「社会参加のメタファーとして少年を巨大ロボットに乗せる!」なんてことはしません。けれどそうした描写を通しての着地点や目標点は、「自らのエゴイズムを痛烈に自覚した人間の苦しみ」であるとか、「戦後闇市の空気」であるとか、テーゼとして切り出せば、記号的ともいえるんじゃないかと。そこにライトノベルを対置すると、名作、として名を残しているものは「ライトノベル私小説の正統後継?」の説ばりに接近こそしていますが、基本的には、いまや「記号の解凍」をしたものが描写され、消費される市場なわけです。ヒロインの属性化と、読者側からの嗜好の表明、やりとりされているものは記号で、それを通して、各作各人の細やかな情動に至る、と。

 そしてようやっと西尾維新。もう彼の人も『化物語』アニメの大ヒットがあり、新しい何かとして扱うのも気が引けますが、『戯言シリーズ』とその周辺を読んでいたころ、「一体なんなんだ、他の小説と感覚からして違う」と感じた記憶は、お持ちの方もいると思います。
 前述の思考と併せて、この当時から思っていたのは「西尾維新は、記号を記号のまま作中に放り込む作風をしているのでは」というものです。天才、史上最強、などの記号設定を露出して、なおかつ作中でも実際に天才や超人として機能して話が進み、「私みたいなキャラのことを、ツンデレっていうのでしょう?」「これしき、一般教養の部類よ」とのたまうツンデレ記号から派生したヒロインが主人公と恋愛をする。「記号の解凍」をしない、あるいは、解凍された記号と併置して未解凍の記号を混在させる。メタとネタとベタ、どの視線も取り入れて物語を作ってしまう。まるで消費しつつ語り合うぼくたちすら、その作品世界に地続きで含むかのように。

 記号に見えるものは記号のままに、記号の群れに覆われていてもきちんと伝わる現実は一瞬に宿して。この「メタネタベタ混在の視線」こそが、ぼくの言いたかった「ある特徴的な感触」です。そうすると「仲間以外はみな風景」ならぬ、「認識しだいでどれも記号」で「背景」をああ見せるアニメ版『化物語』にも、こうした理解があったんじゃないのかな〜、と、書いて見たくなったわけです。

*1:現代小説でも、それこそ西尾維新が登場したのと時期を同じくして、記号的人格、のようなものが扱われるようになりましたが

ひー

 ブログにまとまった文章を書くのって、意外と大変なものであった。
 ともあれ、今後なにから書いていくかなどを考える。

 『水月』論

 コンシューマRPGの、プレステ初期からプレステ2辺りまでの名作選。

 個人的な殿堂に入る既鑑賞の映画・小説・マンガ・ゲーム・アニメ、の評を一つ一つ書く

 作品評価とレビューと感想の扱いとそうしたブログの存在肯定みたいな文章。

 『Landreaall』の某企画の実現。

 『惑星のさみだれ』を貶しつつ褒め上げる。

 『ペルソナ』3と4のテーマを「善」と「真」にまとめて、後者は少しツッコミ。

 中島らも語り。

 山本英夫の三作をひとまとまりとして論じる。

 日本橋ヨヲコについてもやりたいけどこっちは難易度高し。


 一年はゆうに掛かりそうなので、適当に〜

『嫌われ松子の一生』 中島哲也監督   : 愛されるから、愛するのではなく

嫌われ松子の一生 通常版 [DVD]

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 あまりにも残酷な末路だからだろう、松子自身を時系列に従って長々と描写することはない。
 その姿は回想の位置に置かれて、彼女に関わった周囲の人々のそのまた中、〝死後もなお、松子を覚えている人々〟に巡られて、ぐるりと、広い視点で語られる。

「人間の価値って人に何をしてもらったかじゃなくて、何をしてあげたかだよね?」

 このセリフは、<現在>の視点人物として配された主人公、川尻笙の彼女が、彼に別れを告げ、ウズベキスタンへと「青年海外協力隊」に参加する際のものである。
 幻想ではある。
 けれどこの物語は、ついぞこうした「幻想」さえも愛せず、五十歳を過ぎてゴミ屋敷で肥え太るまで自分のみを愛するナルシシズムから出られなかった、松子についてのものである。

 彼女の抱えるナルシシズムの発端が、彼女だけの責任ではないところもリアリティを増す。病弱な妹を抱えた一家に生まれつき、そちらにばかり愛情を注いでいる父。実際には、父は松子のことも心底思いやっているのだけれど、〝まるで父の愛を妹に奪われているようだ〟とする「被害者意識」が松子の目にフィルターを掛け、彼女はそれを実感することが出来ない。
 親に無条件で愛されていると実感できて育まれる、無根拠の自己肯定感。それを得られなかった松子の辿る道は大体二つである。グレるか、親の顔色を窺って愛されようとするか。そうして松子は優等生になった。なってしまった。あるいはグレて親子の対話でも生じれば、父の方だって松子の孤独に気付けたのかもしれない。が、そうはならずに彼女の人生は続く。

 優等生な彼女はそのままに教師となり、二十三歳のとき、修学旅行で生徒の万引きの処理につき当たる。
 彼女のエゴは閉じていて他者意識を欠くので、〝ことさえ済めば、問題の本質はどうでもいい〟という認識であることが、教師らしい振る舞いのオブラートに包まれて描写される。誰が犯人なのかハッキリさせない。「あなたのことを信じてるから、正直に話して」と犯人と思しい生徒に詰め寄って、「それは信じてるとは言わない」と即切り返される。煮詰まった挙げ句には、同室の同僚の財布から引き抜いたものと合わせて旅館へ返し、自分が犯人だということにして、とにかく事件を終わらせるようとする。
 こう書くとなんだか悪意の塊のようにも見えるが、本人はあくまで小ざっぱりとしていて、「あ、こいつは〝大変なことになった、なんとかしなくちゃ!〟以上には考えていないんだな」という印象なのが、上手いバランス感覚である。そのまま事態は露見し、彼女は教師をクビになったり、妹に「全部あんたのせい!」と八つ当たりした挙げ句、家を出ることとなる。第一の挫折。「そのとき私の人生は、ここで終わった、と思いました」という心境をよそに、人生は続く。

 ここからは転落の一途である。
 自称太宰の暴力男に貢ぐ、身体は売れない。自殺されてそのライバルの兼業作家の愛人になる、本妻化計画失敗、今度は身体も売り始める。ソープ嬢として一世を風靡する、年食って落ち目。いきずりの男とタッグを組んでまだ身体で稼ぐ、今度は騙されて金は使われていて、その男を殺害。全てを諦めようと玉川上水で自殺未遂、男に救われてその冴えない男と一月の蜜月、逮捕。獄中でも優等生発揮、面会にも来ないその男の美容室で働くために美容師免許取得、もちろん出所後はもう妻子持ち。挫折のたびに転落を繰り返し、そして毎回「そのとき私の人生は、ここで終わった、と思いました」と立ち向かおうとはしない。
 ただここで、生涯の友人<めぐみ>と出会う。そして出所後には、かつて庇った生徒である<龍>とも再会する。
 ことを済ませようとしただけの松子の行為とその末路に、龍は責任と愛しさを感じ、二人は同棲を始める。当初は二人の生活のために足を洗わせようとした松子も、それを諦め、持ち前(?)の女の武器を使って、龍のヤクザ道をバックアップしさえする。「淋しくさえなければ、二人でさえいられれば、どうでもいい」というわけである。それも長くは続かず、龍は組の金を使い込み、心中……しようとしてやめて、刑務所に入る。出所後まで待っていた松子に別れを告げ、龍はもう一度刑務所に。
 獄中で龍が「自分は松子の愛を怯えていた、これからはもう離さない」とキリスト教に開眼していくのとは裏腹に、松子は「もう会わない。わたしはこれからは独りで生きていく」と決心する。龍のためと考えているつもりだが、おなじみの、「失敗したらその人生はおしまい」扱いをして、向き合わないようにしているのである。
 以後は淡々と一人暮らしをしようとして……それも、出来ない。一人の孤独に耐えかねた松子が最後に縋るのは、アイドルの「光GENJI」であった。追っかけと化した彼女は一方的に募らせた思いを分厚い手紙にしたため、その返事だけを希望に、無為に老境を迎える。かつて親友であっためぐみが精神科の窓口で見かけた松子は、ぶくぶくに太ったまま助けを拒み、足を引きずりゴミ屋敷へと戻っていく姿であった。

 こうして書くと「かわいそうな悲劇のヒロイン」にも読めるが、決して自業自得の印象を崩さない描写のバランスが秀逸である。
 共依存(太宰男)・打算と支配(愛人)・自棄(ソープ嬢)・他人任せと責任転嫁(いきずり男)・理想化盲信(冴えない男)・また共依存と捨て鉢(教え子ヤクザ)

 拾象してまとめてしまっても、松子のこうした「閉じたナルシシズム」が原因の一端、あるいは全てとして、確かに描写されている。結局彼女は最後まで、自分から何かを主体的に愛するということをしない。まだ見ぬ何かを求めて考え抜いたり努力したり、自分の過去と向き合ってそれを背負ったり、自分で自分自身の現実を直視してそれを打開しようとしたりしない。できない。愛されるから愛し、求められるから与える。そうして他人に返しているものというのは、結局のところ、自己愛の変奏でしかないというのに。

 けれどこの映画の中心にあるのは、それを上からこき下ろして告発したりはしない、あくまで冷厳な目線だ。
 外界や他者とその人とが繋がるのは、厳密にはその人の〝行為によってだけ〟である。松子はひたすらに自分を守る心の殻の外に出られずに生きたが、その行為に対し、それだけに世界は反応を返す。彼女を人間のクズのように告発したり口を極めて罵るのは、あくまで観客の都合に過ぎない。行為から垣間見える、彼女のナルシシズムに閉じた性根に反応するのも、観客としてその「物語」を追っているからに過ぎない。
 世界は優しくも厳しくもなく、ただそこに在るようにして在るだけである。
 彼女のエゴに満ちた適当な庇い立てでも、その運命は一人のヤクザに愛を幻視させることが出来た。不器用な愚か者でしかない彼女を愛しく思って、死してなお想い続ける親友も残った。彼女の自己愛でしかない盲信が生んだ熱意でも、彼女の手に美容師としてのスキルを宿らせた。愚かな松子が自己愛だけを生きたその道筋にも、世界は行為だけを受け取って、かすかな、けれど確かなその足跡を刻むのだ。

 彼女は本当に愚かだった。告発は正しい。けれどその最後の最後に、亡き妹に、まるで謝るかのように髪を切ってあげるその空想まで、どうして馬鹿に出来るだろうか。
 そう、彼女は最期に、全ての始まりにして憎しみの対象でしかなかった妹を思い出し、自分こそ彼女に何もしてやれなかったと認め、髪を切る空想をするのだ。

 彼女は空想を終えると、立ち上がり、プライドから救いの手を拒んだ親友の名刺を求め、それを投げ捨てた河原へと戻ってゆく。名刺は見つかるが、彼女の人生はあっけなくそこで終わる。河原で夜遊びをしている中学生を注意して、その馬鹿げた悪意の報復によって、あっさりと、バットで殴り殺されるのだ。
 すべては、彼女の自業自得である。あまりにも遅い改心と、身の程知らずで向こう見ずの注意。彼女の人生が馬鹿げた終わりを迎えるのは、彼女自身が、それを避けられるだけの何ものをも積み上げてこなかったからである。そうして悪意に飲まれることさえも理不尽と呼ぶのは、あまりにも潔癖だ。

 そして、そうした全てを理解しつつも、松子を悼むことが出来る。自業自得だ! だからあれほどきちんと生きろと! ろくでもないと怒りに駆られて彼女を罵りながらも、胸に残る後味の悪さは、紛れも無く、他者としての松子への哀悼だろう。