『嫌われ松子の一生』 中島哲也監督   : 愛されるから、愛するのではなく

嫌われ松子の一生 通常版 [DVD]

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 あまりにも残酷な末路だからだろう、松子自身を時系列に従って長々と描写することはない。
 その姿は回想の位置に置かれて、彼女に関わった周囲の人々のそのまた中、〝死後もなお、松子を覚えている人々〟に巡られて、ぐるりと、広い視点で語られる。

「人間の価値って人に何をしてもらったかじゃなくて、何をしてあげたかだよね?」

 このセリフは、<現在>の視点人物として配された主人公、川尻笙の彼女が、彼に別れを告げ、ウズベキスタンへと「青年海外協力隊」に参加する際のものである。
 幻想ではある。
 けれどこの物語は、ついぞこうした「幻想」さえも愛せず、五十歳を過ぎてゴミ屋敷で肥え太るまで自分のみを愛するナルシシズムから出られなかった、松子についてのものである。

 彼女の抱えるナルシシズムの発端が、彼女だけの責任ではないところもリアリティを増す。病弱な妹を抱えた一家に生まれつき、そちらにばかり愛情を注いでいる父。実際には、父は松子のことも心底思いやっているのだけれど、〝まるで父の愛を妹に奪われているようだ〟とする「被害者意識」が松子の目にフィルターを掛け、彼女はそれを実感することが出来ない。
 親に無条件で愛されていると実感できて育まれる、無根拠の自己肯定感。それを得られなかった松子の辿る道は大体二つである。グレるか、親の顔色を窺って愛されようとするか。そうして松子は優等生になった。なってしまった。あるいはグレて親子の対話でも生じれば、父の方だって松子の孤独に気付けたのかもしれない。が、そうはならずに彼女の人生は続く。

 優等生な彼女はそのままに教師となり、二十三歳のとき、修学旅行で生徒の万引きの処理につき当たる。
 彼女のエゴは閉じていて他者意識を欠くので、〝ことさえ済めば、問題の本質はどうでもいい〟という認識であることが、教師らしい振る舞いのオブラートに包まれて描写される。誰が犯人なのかハッキリさせない。「あなたのことを信じてるから、正直に話して」と犯人と思しい生徒に詰め寄って、「それは信じてるとは言わない」と即切り返される。煮詰まった挙げ句には、同室の同僚の財布から引き抜いたものと合わせて旅館へ返し、自分が犯人だということにして、とにかく事件を終わらせるようとする。
 こう書くとなんだか悪意の塊のようにも見えるが、本人はあくまで小ざっぱりとしていて、「あ、こいつは〝大変なことになった、なんとかしなくちゃ!〟以上には考えていないんだな」という印象なのが、上手いバランス感覚である。そのまま事態は露見し、彼女は教師をクビになったり、妹に「全部あんたのせい!」と八つ当たりした挙げ句、家を出ることとなる。第一の挫折。「そのとき私の人生は、ここで終わった、と思いました」という心境をよそに、人生は続く。

 ここからは転落の一途である。
 自称太宰の暴力男に貢ぐ、身体は売れない。自殺されてそのライバルの兼業作家の愛人になる、本妻化計画失敗、今度は身体も売り始める。ソープ嬢として一世を風靡する、年食って落ち目。いきずりの男とタッグを組んでまだ身体で稼ぐ、今度は騙されて金は使われていて、その男を殺害。全てを諦めようと玉川上水で自殺未遂、男に救われてその冴えない男と一月の蜜月、逮捕。獄中でも優等生発揮、面会にも来ないその男の美容室で働くために美容師免許取得、もちろん出所後はもう妻子持ち。挫折のたびに転落を繰り返し、そして毎回「そのとき私の人生は、ここで終わった、と思いました」と立ち向かおうとはしない。
 ただここで、生涯の友人<めぐみ>と出会う。そして出所後には、かつて庇った生徒である<龍>とも再会する。
 ことを済ませようとしただけの松子の行為とその末路に、龍は責任と愛しさを感じ、二人は同棲を始める。当初は二人の生活のために足を洗わせようとした松子も、それを諦め、持ち前(?)の女の武器を使って、龍のヤクザ道をバックアップしさえする。「淋しくさえなければ、二人でさえいられれば、どうでもいい」というわけである。それも長くは続かず、龍は組の金を使い込み、心中……しようとしてやめて、刑務所に入る。出所後まで待っていた松子に別れを告げ、龍はもう一度刑務所に。
 獄中で龍が「自分は松子の愛を怯えていた、これからはもう離さない」とキリスト教に開眼していくのとは裏腹に、松子は「もう会わない。わたしはこれからは独りで生きていく」と決心する。龍のためと考えているつもりだが、おなじみの、「失敗したらその人生はおしまい」扱いをして、向き合わないようにしているのである。
 以後は淡々と一人暮らしをしようとして……それも、出来ない。一人の孤独に耐えかねた松子が最後に縋るのは、アイドルの「光GENJI」であった。追っかけと化した彼女は一方的に募らせた思いを分厚い手紙にしたため、その返事だけを希望に、無為に老境を迎える。かつて親友であっためぐみが精神科の窓口で見かけた松子は、ぶくぶくに太ったまま助けを拒み、足を引きずりゴミ屋敷へと戻っていく姿であった。

 こうして書くと「かわいそうな悲劇のヒロイン」にも読めるが、決して自業自得の印象を崩さない描写のバランスが秀逸である。
 共依存(太宰男)・打算と支配(愛人)・自棄(ソープ嬢)・他人任せと責任転嫁(いきずり男)・理想化盲信(冴えない男)・また共依存と捨て鉢(教え子ヤクザ)

 拾象してまとめてしまっても、松子のこうした「閉じたナルシシズム」が原因の一端、あるいは全てとして、確かに描写されている。結局彼女は最後まで、自分から何かを主体的に愛するということをしない。まだ見ぬ何かを求めて考え抜いたり努力したり、自分の過去と向き合ってそれを背負ったり、自分で自分自身の現実を直視してそれを打開しようとしたりしない。できない。愛されるから愛し、求められるから与える。そうして他人に返しているものというのは、結局のところ、自己愛の変奏でしかないというのに。

 けれどこの映画の中心にあるのは、それを上からこき下ろして告発したりはしない、あくまで冷厳な目線だ。
 外界や他者とその人とが繋がるのは、厳密にはその人の〝行為によってだけ〟である。松子はひたすらに自分を守る心の殻の外に出られずに生きたが、その行為に対し、それだけに世界は反応を返す。彼女を人間のクズのように告発したり口を極めて罵るのは、あくまで観客の都合に過ぎない。行為から垣間見える、彼女のナルシシズムに閉じた性根に反応するのも、観客としてその「物語」を追っているからに過ぎない。
 世界は優しくも厳しくもなく、ただそこに在るようにして在るだけである。
 彼女のエゴに満ちた適当な庇い立てでも、その運命は一人のヤクザに愛を幻視させることが出来た。不器用な愚か者でしかない彼女を愛しく思って、死してなお想い続ける親友も残った。彼女の自己愛でしかない盲信が生んだ熱意でも、彼女の手に美容師としてのスキルを宿らせた。愚かな松子が自己愛だけを生きたその道筋にも、世界は行為だけを受け取って、かすかな、けれど確かなその足跡を刻むのだ。

 彼女は本当に愚かだった。告発は正しい。けれどその最後の最後に、亡き妹に、まるで謝るかのように髪を切ってあげるその空想まで、どうして馬鹿に出来るだろうか。
 そう、彼女は最期に、全ての始まりにして憎しみの対象でしかなかった妹を思い出し、自分こそ彼女に何もしてやれなかったと認め、髪を切る空想をするのだ。

 彼女は空想を終えると、立ち上がり、プライドから救いの手を拒んだ親友の名刺を求め、それを投げ捨てた河原へと戻ってゆく。名刺は見つかるが、彼女の人生はあっけなくそこで終わる。河原で夜遊びをしている中学生を注意して、その馬鹿げた悪意の報復によって、あっさりと、バットで殴り殺されるのだ。
 すべては、彼女の自業自得である。あまりにも遅い改心と、身の程知らずで向こう見ずの注意。彼女の人生が馬鹿げた終わりを迎えるのは、彼女自身が、それを避けられるだけの何ものをも積み上げてこなかったからである。そうして悪意に飲まれることさえも理不尽と呼ぶのは、あまりにも潔癖だ。

 そして、そうした全てを理解しつつも、松子を悼むことが出来る。自業自得だ! だからあれほどきちんと生きろと! ろくでもないと怒りに駆られて彼女を罵りながらも、胸に残る後味の悪さは、紛れも無く、他者としての松子への哀悼だろう。