「傷付き、傷付けることへの覚悟」と「傷付けることはないように思考し続ける意思」

理解できない他者に対し「それでも優しくあろう」とするのなら、相手の持つ理解できない・感情移入できない幻想である「常識」や「歴史」を、むしろ全力で尊重しなければならない。機械的で表層的な対応は無礼ではなく、相手に「共感」出来ていない自分の心の底をただただ恥じるのみである。

 うーん。どうなんだろう。時には自分の核を以て相手の方に影響してしまおうとメッセージを投げかける試みも、充分「優しさ」な気もする。個別具体的に悩み続けるしかないのだろうけれど。考えなしだったときのことを反省する。そのためにも行動し続けるしかない。

 相手に「自分のことを切り捨てる自由」を与えていない気もする。それは依存気質だ。個別にコミュニケートの努力をし、来るもの拒まず去るもの追わず? 来るもの拒まずを自分に適用しようとしていると、相手が自分のもとを去ることへの受け入れ難度が上がる。そもそも無理に拒まずを自分に強いるのは不健全か。

 究極的には「なるようになっていく」ことを受け入れるにせよ、心積もりが。どんな倫理観を信条に据えるにせよ各々の偏りというものが生じて、それを避けることを志向する自分のような考えは、ほんと原理的に破綻している。挙げ句に、範囲を広めるとごく一般的には「冷たく」なっていくわけで。

 心積もりというか、そうした「予見」の類の試みこそが、相手の自分への評価や自他の関係性をコントロールしたり支配しようとするエゴにも見えるから、真剣に悩んでも迷宮である。時には、あるいは四六時中、「どうにもならない」ことばかりのナイフの雨に、幻想ではない傘が無い。