『Steins;Gate (シュタインズ・ゲート)』 5pb   : 無かったことにはしてはいけない。その行為は、決して無駄ではないのだから

Steins;Gate (シュタインズ・ゲート) (数量限定版) - Xbox360

Steins;Gate (シュタインズ・ゲート) (数量限定版) - Xbox360

 あらかた感想は出揃っているので、直接的に触れられることの少ない「メタギャルゲー」としての『シュタインズゲート』について。

 構成に関わっている下倉バイオ氏が、ニトロプラスの方で『スマガ』のシナリオを書いていたのは、ご存知の方も多いと思います。

スマガ 1 (ガガガ文庫)

スマガ 1 (ガガガ文庫)

(ソフトが表示できないので、画像は小説版)

 扱うと書いておいてあれなのですが、「メタギャルゲー」の語そのものについて、あまり正確なことを言える自信はありません。どのような表現をもってして「メタ」と判断し論じるのか。手塚治のマンガにおいてコマの枠をいじったり作者が乗り出してくることを指しても「メタ」でしょうし、劇中劇において劇中の構造に酷似したものを演じさせるのも、「登場人物には不可知のメタ性」として扱えることと思います。なので、ここでの「メタギャルゲー」とは、作品内の物語が、「ゲームプレイ」そのものについて何らかのメッセージを投げかけているように見えるもの、辺りとします。

 『Ever17』であるとか、『Cross†Channnel』の「ループ=ギャルゲ」暗示構造であるとか、広義には『マブラヴオルタネイティブ』も「ハーレムとヘタレ性の主人公≒プレイヤー」を告発していると読めば、メタであるといえます。こうした「ゲームプレイ」そのものへの言及としての「メタ」において、『シュタインズゲート』が、どのような文脈への意識の感じられるものであったか、その辺をだらだら書いていきたいと思います。


 http://d.hatena.ne.jp/hasidream/20091201/1259675794を見ればそれで充分すぎるほど事足りるのですが、シュタゲは「主人公がヒロインを救う」ことを、物語の中心に据えたゲームです。ただこの一口に救うといっても、シュタゲでは、

「主人公が超常的な力を行使できるようになる」
          ↓
「トラウマ(過去の問題)を抱えたヒロイン群をその力で救う」
          ↓
「(選ぶなら)それぞれのヒロインとのエンディングを迎える⇔ある別のヒロインの犠牲が各ヒロインエンドの条件になっている」

という流れが存在します。ここから連想する方もいると思うのですが、「あれっ、これって〝KANON問題〟?*1」という疑問が、頭をよぎりました。ようするにシュタゲでは、まゆりの生存と他のヒロインのトラウマ救済がトレードオフな関係にある(ように見える)ことから、その天秤をぐらつかせて主人公オカリンは苦悩するわけです。が、これって、とても似ていますよね?

 それと前述の下倉バイオ氏の作品とを鑑みて、この構造とその意味が、それなりに自覚的なものなんじゃないかと予想が付くわけです。現実と似ているが確実に違う世界で、ヒロインのトラウマを救済する。中盤でのヒロインを換えての繰り返しは、そのまま「トラウマ救済型ギャルゲー」の「ゲームプレイ」と重ねて読めるものです。

 そこでの体験を通して語られるのは、これも割合おなじみの感のある「告発」となります。曰く、超常の力を使ってはならない、己の過去は自らが受け止めなければならない。それに反するエンドを許容してはいますが、既プレイの方はご存知の通り、意図すら感じる展開の早さとシナリオの短さで、あっさりと物語はその幕を閉じます。まるで、「これは本筋ではないから先に進め」とでもいわんばかりに。


 それでは真エンドの表裏の対としては、どのような流れになるのか。これもまた、もう一回裏返しがあるのが、この読みでの見所となります。超常の力による究極の二者択一それぞれ。その向こうに用意された真エンドの意図とは?

 それが、本エントリのタイトルとなったセリフです。まんま上の通りの字面ではないのですが、「世界線移動の体験は、無駄なんかじゃない」として、「元の自分の世界」であるところの元の世界線で、正しい選択をするための経験を積む場所として「元の世界線に戻ってきたらなかったことになる、オカリンの記憶の中にしか存在しないものになる」行為が、それでもなお、肯定されています。

 これが、本作『シュタインズゲート』での、「メタギャルゲー」としての、メッセージなんじゃないのか、と。

 かつて、田中ロミオが企画シナリオであった傑作『Cross†Channnel』においては、逆にヒロインが全て「元の世界」に「送還」され、主人公は「思い出」だけを胸に残して、一方通行のラジオにメッセージを発信し続ける結末を迎えました。「ゲームプレイ」のその終わり、「思い出」だけを残して、それを一方通行的に発信することにしか希望を見出せなかった物語*2。『シュタインズゲート』では、作中の世界をハッキリと世界線で二層化することにより、「〝思い出〟を元の世界で有効化すること」までを、その物語に組み入れました。

 無かったことにしてはいけない。その行為は、決して無駄ではないのだから。

 厨二病センスから来る用語をそのまま使い続ける「動画メールのオカリン」といい、作中に満ちた「肯定的な優しさ」も、もう少し注目されていいんじゃないかと思います。


 ※追記 『Steins;Gate (シュタインズ・ゲート)』 5pb : 【補論】 "鳳凰院凶魔"の戦い - 0殻
  むしろこちらの方が、シュタゲ単体のテーマを簡潔に論じている。

*1:実際の『KANON』そのものにはこの問題は存在せず、トレードオフが暗示されるルートのある『KANON』にこの問題を集約したんだ、という説もあります。

*2:当然、それだけではないわけですが、この文脈への回答として、の意