『化物語』 新房昭之監督   : この背景は〝会話劇のため〟か?

 演出について詳しくはないので、原作者である西尾維新のファンとして、適当なことを。

 観た方は分かると思うのですが、背景が「具体的な個別性を脱色し、直線とべた塗り+影くらいから構成されていて、ほぼ抽象的な記号」です。
 で、これの解釈として一般的?なのが「西尾維新の原作が会話劇である。背景に雰囲気を持たせると必ずやズレが生じる、よって幾何学的」というものだと思います。
 で、そんなに消極的な理由なのかな? と疑問がありまして。では自分はどう思って見ているのか。「西尾維新の作風・雰囲気とあっているのは、もろにこうした幾何学的な背景だろう」という見方。とも近いのですが少し違い、「実は、西尾維新作品への深い理解があるんじゃないのか」と。
 「西尾維新の作風」なんて一口に言って語り切れるものではないのは重々承知しているのですが、ある特徴的な感触について、充分な理解と自覚的な反映が見えた気がするんですね。

 曰く、<記号→記号>の描写法。
 お前は一体何を言ってるんだ、という話ですが、ぼくは過去に「文学とライトノベルの違い」という、これまた問題設定からしてマズい予感のする問いを、真剣に悩んでいたことがあります。このときに、正解ではないのは承知で、悩んでみて悪くなかったかもしれないと思えた収穫に、<現実描写→記号的プロット>から<記号描写→現実的エモーション>への転換、という考え方がありました。
 これまたどういうことかと言うと、「純文学寄りの小説は、あるテーマや感触について、それを読者に感じさせるために現実の意識をシュミレートして描写している側面がある」という見方をとりあえず許し、それと対置するようにして、「ライトノベルは記号の順列組み合わせと追加によって、それを通して現実の人間である読者の情動に訴えかける」という見方をするものです。例外だらけもいいとこなんで、あくまで〝それぞれの傾向〟についての感想だと思っていただければ。
 純文寄りの小説*1は現実的な人間を描写するし、「社会参加のメタファーとして少年を巨大ロボットに乗せる!」なんてことはしません。けれどそうした描写を通しての着地点や目標点は、「自らのエゴイズムを痛烈に自覚した人間の苦しみ」であるとか、「戦後闇市の空気」であるとか、テーゼとして切り出せば、記号的ともいえるんじゃないかと。そこにライトノベルを対置すると、名作、として名を残しているものは「ライトノベル私小説の正統後継?」の説ばりに接近こそしていますが、基本的には、いまや「記号の解凍」をしたものが描写され、消費される市場なわけです。ヒロインの属性化と、読者側からの嗜好の表明、やりとりされているものは記号で、それを通して、各作各人の細やかな情動に至る、と。

 そしてようやっと西尾維新。もう彼の人も『化物語』アニメの大ヒットがあり、新しい何かとして扱うのも気が引けますが、『戯言シリーズ』とその周辺を読んでいたころ、「一体なんなんだ、他の小説と感覚からして違う」と感じた記憶は、お持ちの方もいると思います。
 前述の思考と併せて、この当時から思っていたのは「西尾維新は、記号を記号のまま作中に放り込む作風をしているのでは」というものです。天才、史上最強、などの記号設定を露出して、なおかつ作中でも実際に天才や超人として機能して話が進み、「私みたいなキャラのことを、ツンデレっていうのでしょう?」「これしき、一般教養の部類よ」とのたまうツンデレ記号から派生したヒロインが主人公と恋愛をする。「記号の解凍」をしない、あるいは、解凍された記号と併置して未解凍の記号を混在させる。メタとネタとベタ、どの視線も取り入れて物語を作ってしまう。まるで消費しつつ語り合うぼくたちすら、その作品世界に地続きで含むかのように。

 記号に見えるものは記号のままに、記号の群れに覆われていてもきちんと伝わる現実は一瞬に宿して。この「メタネタベタ混在の視線」こそが、ぼくの言いたかった「ある特徴的な感触」です。そうすると「仲間以外はみな風景」ならぬ、「認識しだいでどれも記号」で「背景」をああ見せるアニメ版『化物語』にも、こうした理解があったんじゃないのかな〜、と、書いて見たくなったわけです。

*1:現代小説でも、それこそ西尾維新が登場したのと時期を同じくして、記号的人格、のようなものが扱われるようになりましたが