『マギ』 大高忍 : 王様とマギ

マギ 1 (少年サンデーコミックス)

マギ 1 (少年サンデーコミックス)

 誰もが皆はじめは、純粋な願いを持っていた。
 生来的、あるいは身体的な欲求と呼んでも誤差はそうないだろう。三大欲求でもいい。食べ物は舌をヤケドするほど熱いか、目が冴え渡り頭頂を突き抜けるように冷えているか、あるいはひりつく喉を爽やかに潤し、あるいは歯応えや舌触りとして旨みが感じられるか。傍らに魅力的な異性はいるか、寝床は充分に広くて暖かいものか。あるいはもっと社会的なものでもいい。人から褒められたい、認められたい、時として甘やかされるほどチヤホヤと扱われ、高い酒に酔ったかのようにいい気分でありたい……。
 けれどそれは際限なく叶いはしない。ただ叶わないのみならず、”世界”は時として過酷で、その辛酸をなめて生きた人間はもう、単純な欲求の充足では救い得ない「別の何者か」になっている。それをして、人間だと答える向きもあるだろう。

 「マギ」は「王」を選ぶ。
 人が群れをなし拡大し社会を構成するときから「王」が求められ、その「王」を選ぶ賢人であるところの誰か、それが「マギ」。
 王が己の主張を賭けて殺し合いを展開すればそれはバトルロイヤルに過ぎない。力ある者が頂点に立つのなら人はその集団に与して生きていくことに積極的な価値を見出せはしない。せいぜいが、自分で物事を考えなくて済むといったところであり、けれどそれは意外と説得力を持ってもいる。
 「王」を巡るそうした混乱と錯綜の中で、「少年漫画の白と黒の主人公」の”白”として、直感倫理の裁定と力の行使だけを担当する「マギ」を配して、『マギ』の物語は始まる。
 人間の計と尽力は「王」であるアリババに。これが所謂「黒の主人公」となる配置は『鋼の錬金術師』と通じるものがある。そして作中でもそれは<黒の器>と呼び習わされ、この辺り、自覚的なようでもある。
 「白の主人公」である「マギ」はアラジンに。『金色のガッシュベル』『HUNTER×HUNTER』などあるように”白”を「王」とするのが一般的に思う。が、先に挙げた『鋼の錬金術師』と併せて、こちらも「根源倫理を問う白・王の手管を尽くす黒」の役割配置になっている。
 ぼくは本作『マギ』を、今のところ『鋼の錬金術師』の対として読んでいる。後者が白の主人公を国取りから遠ざけて人体練成(人と神の境界線)の倫理を追究する作品であるのに対し、前者は国取りの主役に”黒”の主人公を置いて世界を横に広げて見ようとする方向へと向かっている。後者が演繹的であるとするなら、前者は帰納的に世界を見て回ることで「王格」や「倫理」を証そうとしている。
 そしてその時主軸となるのが、冒頭に語った「欲求」となるらしい。「マギ」アラジンはそうした意味で純度の高い望みを綺麗に持ち続けていて、「王」アリババは王族でありながらも「人を使役・支配すること」を拒む意志の萌芽を持っている。空間的には横向きに国々を、時間的にもおそらくは縦に古代文明を、繋いでいく「王の倫理」がどのような姿を見せるのか、今後も注目して読みたい作品である。